2011年10月25日

指宿よりブログ開設のお知らせ

指宿に引越ししてもうじき1ヶ月、やっとお約束の新ブログ
さらさらきらきら」を立ち上げました。
表題の意味は読んでいただければ判ります。
まずは生活のことなど中心に、そのうちいつもの花や鳥などの話題を載せていきたいと思っています。
なお、写真を一回り大きくしています。枠からはみ出ていたら、ウィンドウの幅を広げて、文字と重ならないようにして見てください。
posted by 夜泣石 at 09:49| Comment(3) | 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2011年09月27日

野の花の絵葉書

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8年前に屋久島に移住した時、やりたいことがたくさんあった。その中の一つが花の写真を撮ることだった。東京にいた頃、休日を心待ちしながらしばしば遠くの山などに撮りに出かけていた。それが毎日身近でできるようになるのだ。

来てみると残念ながら屋久島の平地は、この島の人たちの勤勉さを裏書きするかのように徹底的に切り開かれていた。またその後農業人口の減少や高齢化で放置された土地は、数年で見るも無残な化け物林に落ちぶれているのだった。豊かな自然の残された里、それなりに手入れされた里山などは、東京近辺の方が多いくらいだった。

それでも目を凝らせば、防風林の根元や海岸近くなどに、なかなかきれいなもの、かわいいものが見つかった。そうした写真を撮って数年、屋久島野花という絵葉書セットを作って売り出してみた。それが昨年末になってやっと売り切れた。人から勧められたこともあり、新版を作ることを思い立った。多くを新しい写真に入れ替え、いろいろ工夫を凝らしたところ、我ながら上出来だなと思うものができた。中でも色の出が、なかなか苦労した甲斐もあって見栄えのするものになった。写真はそのまま印刷に回すと、ひどくさえない、汚らしいような色になってしまうことが多い。それを補正する技術は、屋久島の景色など多くの絵葉書を作る中で独学で習得したものだ。

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フォルダーの裏に一覧表をつけてみた。どんなにいろいろな花が咲いているものか一目で判る。またいつ撮影したかの時期を入れてあるので、その花を見たい人はいつ頃探せばよいか判る。

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この中に入りきれなかった花はまだまだたくさんあるので、すぐに第2集に取り掛かった。写真を並べて、これなら第5集くらいまで作ることになるかと思っていた。それは今からわずか数ヶ月ほど前のことだ。まさかそれからすぐ、突然屋久島から出て行く気になるとは自分でも思いもよらないことだった。

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第2集が出来上がった時、ふと気の抜けたような思いに捉われた。私は何かが成就した時、その喜びに浸るより、ああ終わってしまったなと虚無感に襲われることが多い。テレビで見た女子サッカーチームの優勝の時、その喜びようが、あんなにも純粋に喜べることがうらやましかった。ともかく大きな宿題が一つ片付いてしまった気がした。言ってみればこれは卒業論文みたいなものだ。ずっと取り組んできた課題をやっと済ませて、これから屋久島生活を卒業していくのだ。

キキョウランs.jpg

この24枚の写真の中で一番の傑作はと言えばキキョウランだろう。我が家の庭で大きな茂みになっているので、初夏の頃は毎日、最も良い状態のものを探して撮っていた。この黄色の葯は咲いてしばらくもすると黒ずんでくるので朝の数時間しかチャンスはない。ちょうど朝日の逆光で青紫の花びらが透き通った瞬間があった。こんな写真は自分の庭でなければなかなか撮れるものではない。

タニワタリノキs.jpg

また多くの人に人気のあったのはこのタニワタリノキだ。これも我が家の庭で撮った。全国的にはかなり珍しい花だが、屋久島ではごく普通にある。しかし住民のほとんどが見たことがないと言うのに驚く。小さな花だし派手ではないので気付かないようだ。

この花たちは3つくらいを除き他はすべて我が家の近くで見られるものだ。深山幽谷に分け入って、珍しい花、特別な花を写す人はよくいる。そしてそれらは有名だから、写真で見たり名前を知っている人も多い。しかし自分の足元でどんなにきれいな花が咲いているか知っている人は少ない。同様に、海岸に転がっている石ころにとてもすてきなものがあるのに、それも住民の人はほとんど知らない。

これから行く薩摩半島南端の里の草花は屋久島とほとんど変らない。うれしいことに水辺の花など、屋久島では絶滅してしまったものも残っているようだ。いつかまた絵葉書の続きを作ろうかと思う。しかしあせることはない。ともかく屋久島暮らしは、さあこれからが本当の自分だといった思いで力み過ぎていたようだ。次のところでは燃え尽きないようにやっていきたい。
posted by 夜泣石 at 05:58| Comment(4) | 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2011年09月03日

願い石叶い石

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海辺で拾った丸い石
胸のあたりで握り締め
願い事をささやいて
そっと平たい石に
載せておきます
それを見つめて
毎日願い事を
ささやいていると
いつかきっと叶えられます
南の島の小さな子供のおまじない
あなたにも効き目があるといいですね

こんな添え書きと共に、石2つを袋に詰めて「願い石叶い石」の名でみやげ物として売り出してみた。それがなかなかよく売れたのだった。石を売ろうとするのは、どうしようもない人の象徴として漫画やジョークなどに時々出てくる。拾った石、何の価値も無い石ころ。そんなものが売れると思う浅はかさ、そんなことで食べていこうとする愚かさ。しかし私はそののん気さや物ぐささ、そしてどこか人を食ったような感じに惹かれもするのだった。

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屋久島では砂利やごろた石の海岸が多い。荒波に石がもまれ、波の動きに乗って打ち寄せられ、また引き戻される。どどー、どどーと恐ろしげに繰り返す波の合間に、かちかち、ばちばち、がらがらといったにぎやかな音が混じり合い響き渡る。それは無数の形の無い生き物たちの叫びか、あるいは無数のいなくなった子供たちのおしゃべりのように聞こえたりする。私はそんなところをさまようのが好きだ。

石たちは転がりぶつかり合って、どんどん小さく丸くなる。円盤状になるものと球状になるものとがある。どちらもびっくりするほどきれいな丸で、また表面は滑らかに磨き上げられる。そうしたものを私は目に付くたびに拾ってきた。机に転がしておいたり、また積み重ねてみたりもした。ふと、こうした石を自分がこんなに好きなのだから、ほかにも好きな人はいるだろうと思った。売り出してみて、意外に仲間が大勢いることが判って、なんだかほっとする気分だった。

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握り締めるのにちょうど良いような形の石もしばしば拾える。それに次のような添え書きを付けて、「思い石願い石」の名で売り出してみた。これも私自身はなかなか好きなのだが、いささかやりすぎだったようであまり売れなかった。

海辺で拾った丸い石二つ
右手に握り締めて思い石
左手に握り締めて願い石
どんなに思っても
どんなに願っても
海の向こうに消えていく
空のかなたに消えていく
それでも手の中に
握り締めた丸い石二つ
いつまでも心の底に
決してなくさない
希望が二つ
posted by 夜泣石 at 06:22| Comment(0) | 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2011年08月25日

断捨離

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我が家から眺めるモッチョム岳

屋久島脱出が決まり、さあ引越し準備だと身の回りを見回して、いささか呆然としてしまった。あれやこれやの物があふれるばかりにあるのだった。壁一面の本棚は満杯だし、建て増しして普段は使わなくなった旧宅にも古物がぎっしり詰まっていた。庭にも園芸用品などが山積みするほどあった。改めて眺めると気持ちがどんより沈んでくるほどだ。

断捨離という言葉が、昨年だったか流行語になっていた。断ち・捨て・離れるということで、身の回りをすっきりさせてよどみを無くし、新陳代謝を促すということだそうだ。あふれかえるモノが、生活の邪魔をし気分を害し活動を阻害している。あたかもモノで充満した底なし沼に足を取られ身動きできず、もがけばもがくほどますます引きずり込まれてしまうかのように。したがってそうしたモノのしがらみを思い切り断ち切れば、生き生きとした人生を取り戻せるということのようだ。

思い起こせば、私は屋久島に多くの夢を抱えて移住してきた。夢にはそれを実現するための道具が付随していた。年を重ねるごとに夢の数々は消えていったが、モノは消えずに残り続けていたのだ。心の中で整理が付かず、またいつかはと未練がましく捨てずに残して置いたのだった。そうした残骸の山は鬱陶しく、見て見ぬふりをし続けてきた。

そうしたことに突然、終止符を打つ機会がやってきた。新天地では過去のさまざまな未練を断ち切って新しい生活を始めたい。そのためには徹底的な断捨離をしなければならない。そう思い立ってから毎日、多くの時間をモノの片付けに充て続けてきた。どんなに断捨離に時間を費やそうとも、その分、新しい生活で何十倍にもなって返ってくるはずだ。

ここ何年も開いたことの無い資料はすべて捨てた。昔書いたたくさんの原稿やノート、日記や手紙のたぐい、切抜きやコピーした資料、また撮ったり撮られたりしたたくさんの写真。それらは未練はあっても見返すことはもはや無い。私は過去を振り返らない人間だ。思い出やしがらみを振り切り、過ぎ去った日々から目を背けるように生きてきた。どうも普通の人は過去を大事にするようだから、これは私の人間的欠陥なのかもしれない。あるいは幼い頃のアルバムなど、実家に残しておいた思い出の品々をすべてを親に捨てられてしまったことのしこりがあるのかもしれない。しかしそれならばそれを逆手にとって、よりいっそう前を向いて生きるだけだ。

私は若い頃から本に囲まれているのが好きだった。しかしまともな本屋の無い離島に来てから、本を買う習慣はなくした。相変わらず多読乱読は続いているが、どれも図書館から借りるようにしている。やってみるとそれで十分だった。読み返すことはほとんど無いし、期限があるから積ん読になってしまうこともない。だから本棚にあったのは本土から持ってきた昔の本がほとんどだが、それらはすでに黄ばみ汚れ、しかも字が小さく年寄りの目にはもう読めないのだった。また、若い頃はなぜこんな本に感動したのだろうと訝しく思うものも多い。結局、図鑑類を残してほとんど捨てた。程度の良い本は図書室にある持ち出し自由コーナーに運んでみた。大半がすぐになくなったから、この仕組みはとても良いことだと思う。

服、カメラ、PC用品、山の道具、園芸用品なども、今使っているものを残して片っ端から捨てていった。また家電、家具など、古いものを旧宅に宿泊客用として置いてあったのだが、欲しいという人に次々に引き取ってもらった。私はずっと都会のアパートやマンション暮らしをしてきたので、狭いところにいかにモノを配置するか、いかにうまく収納するかに習熟した来た。今から思うとそれは実に無益な努力だった。これからはいかにモノを置かず空間を空けておくか、引き出しや棚があってもできる限り空っぽにしておくことに腐心したい。

本当にこれでいいのかと思うほどがらんどうになった。なんだか大震災に遭ってしまったかのようだ。私の今までの人生とは何だったのかと空しく思うくらいだ。これではまるで不治の病で余命を告げられた人が、身辺の整理を終えたみたいだ。もしかしたら私は本当に死期を予感して、無意識にその準備を始めたのかもしれない。そこまで行かなくとも、老い支度をしなければと思う年頃になったのか。いやそれにしてはなんとも爽やかで、新しい生活を始めたいという意欲が湧いて来るのだ。

断捨離はモノだけが対象ではない。人間関係や暮らしのさまざまなものごとすべてが対象になる。私は屋久島に未練がないといえば嘘になる。8年の歳月はそれほど長いというほどではないが、なかなか深く濃い付き合いがあったと思っている。いや、いささか深入りしすぎてしまったようだ。私にとって屋久島を捨てることが最大の断捨離なのだろう。
posted by 夜泣石 at 09:31| Comment(0) | 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

屋久島から出て行く

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我が家から眺める満月の海

それはあまりにも唐突だった。ぼんやりと机に向かっていた時、ふと屋久島から出て行こうかという考えがよぎった。すぐにまさかと一笑に付した。もともと骨を埋めるつもりで移住して来たのだし、この自分で設計した家も、ここからのすばらしい眺めにも、なかなか満足していたのだった。しかし一度浮かんだ思いは消えなかった。それどころかどんどん心の中で膨らんでいくようだった。冗談半分に、どこか良いところはないかネットで探してみた。すると幸か不幸か、すぐに気をそそられる物件が目に留まった。試しに連絡を取って、早々に見学に行ったら、その場で心が決まってしまった。その後いくらかやりとりはあったが、ほとんど一気呵成という感じで契約に至った。こうして8年間の屋久島暮らしはあっけなく終わり、この9月末に鹿児島県本土の指宿に引っ越すことになった。

今から振り返ると、屋久島脱出の思いは心の中でじっくり醸成されてきていたと判る。それが大きくなってきて、突然意識されただけのようだ。落ち着いて考えてみれば、もうここでは暮らせそうもないと思う理由がいくつもあった。いささか年を取って体力が落ちてきて、この地での生活に疲れを覚えるようになったといった直接的な理由もある。しかし何より、理念や目標の喪失といったことが大きい。

私はずっと、いわゆる田舎暮らしにあこがれていた。そして早めに会社を辞めて移住先を探し、中途半端な本土でなく南の島にまで渡って来た。田舎暮らしの考えの根底には、人類の将来への危機感、機械文明や進歩などへの疑問、都会の喧騒に対する嫌悪感などがある。そして自然と調和した農業への回帰、自給自足への憧れ、古きよき時代への郷愁といった夢物語に彩られている。しかしこの地で何年か暮らしてみて、今、私はそのような反文明志向は、都会の文化人の書斎の幻想にすぎないと断言できる。文明の恩恵を受けない生活など歴史上あったためしはない。アマゾンの奥地に隔絶された少数民族でもそれなりの文明を持ち、そして今や与えられた鉄のナイフを使っている。古い時代の生活を頑なに守っているアーミッシュなど、文明の一時期の中途半端な段階に固執しているだけだ。彼らは自給自足を旨とするが、鉄鉱石を掘り出してきて自分で精錬などするわけではない。彼らの社会もまた周りの工業社会との交易がなければ成り立たないのだった。

まして屋久島など、都会の生活と同じものだ。人々の暮らしも地場の産業も最新の工業製品と石油にどっぷりつかっている。しかし経済的に条件の悪い離島でそんな生活を維持するのはなかなか困難だ。いや実際、この島の収入ではそんな生活が賄えるわけはない。どうしているかというと、交付金やらなにやら様々な国の支援を受けているのだ。それは元はといえば、都会の人や企業の納めた税金だ。つまり端的に言えば、ここの人たちは都会に寄生し、いわば乞食生活をしているのだ。しかもそれでも足りずに多額の借金までしている。

最近ガソリン価格の話題があった。離島では高すぎるということで、国から補助金が出ることになり、少し安くなった。それでも島の人たちはまだ高い、もっと出せと要求している。しかし客観的に見れば、輸送費がかかるのだから高くて当然なのだ。補助金を出せというのは、都会の人にたかっているのと同然だ。屋久島の人はどういう権利があって金を要求できるのか。また都会の人にとって、屋久島に金を渡すとどういう見返りが期待できるのだろう。

ところで屋久島のガソリン価格が高いのにはもう一つ理由がある。零細業者が乱立しているのだ。従って極めて効率が悪い。その上で、彼らすべてがかなりの利益が出るよう価格が高止まりしている。どんな闇カルテルがあるのか知らないが、国に援助を求める前に、まず自分たちでこうした仕組みを改めるべきなのだ。しかしここの為政者たちは全く何もしない。なにしろスタンドの経営者は県会議員だったりするのだから。彼らは自分の利益はしっかり守りながら、ひたすら国に金を要求するだけだ。

こうしたことが随所で行われている。町長を始め多くの政治家が屋久島の基幹産業は農業だという。しかし屋久島農業は多くの補助金の上でやっと成り立っているだけだ。もちろん日本全体がそうだが、離島はそれに輪をかけて酷い。そしてそうしたお金を食いつぶして、農業は衰退する一方なのだ。補助金目当てのハコモノ行政と何も変りはしない。

そもそも国にとって、日本国民全体にとって、支援してまで離島で人に暮らしてもらうメリットには何があるのか。すぐに思い浮かぶことは国防だ。無人島にしておくと外国人に不法占拠される恐れがある。しかし屋久島の人に国を守る気概などあるのだろうか。何しろここでは、海上はるか離れたところに米軍の訓練基地が計画されただけで、町長と議会が反対声明を出し、また住民に対し役場を挙げて反対のやらせ署名などおおっぴらに繰り広げるくらいだ。しかもその理由として、農業被害、漁業被害、騒音被害などありもしない大嘘を並べて、それがばれて来ると、今度は世界遺産の看板に傷が付くなどと言い出す始末だ。根っからのエゴイストと言うしかない。

国に何も返せないのなら、国から恵んでもらうべきではない。補助金獲得などに汲々とするのでなく、自分たちの力で食べていくよう努力しなければならない。それは国民として当然の心構えではないか。幸いここには、豊かな自然と世界遺産の看板といった国内でも有数の観光資源がある。民間企業並みの経営努力さえすれば、すぐに島の収入は何倍にもなるだろう。しかし屋久島には具体的、現実的な実行計画や将来計画など一切ない。行政から出てくるのは美辞麗句をちりばめた宗教経典のようなものばかりだ。偉い人の中には、世界遺産で金儲けするべきではないなど言う人がいる。神棚を祭ってさえいれば、物乞いで国民全体に迷惑をかけ、借金で子孫に迷惑をかけてもかまわないと思っているようだ。

最近、自然保護のために登山客を制限しようと、役場から全住民にアンケート用紙が配られた。その中に自然破壊の例として踏み荒らされた登山道の写真が載っていた。しかしこの島では2本のハイウエイ並みの山岳道路建設など、大規模な自然破壊が堂々と行われている。それらと比べれば、登山道の踏み付けなど九牛の一毛にもならない。しかしそうした事実から住民の目はそらされ、役場主導の洗脳が強引に行われている。結局ここの為政者たちにとっては観光振興も自然保護もどうでもよいのだ。欲しいのは工事予算、補助金、そして彼ら一部有力者たちの利益独占なのだ。

話は違うが政治が何もしない例として、生活に直結する電気問題がある。屋久島の電気事情は酷い。料金が高いことに加えて停電の頻発がある。しかも増加傾向にあり、最近では停電のない月などないくらいだ。これは発電においても配電においても設備の老朽化が進んでいるからだ。しかし屋久島では一工場の自家発電の余った電気を、3つの電気組合が配電するという特殊な体制になっている。ばらばらで弱小で、これでは設備の更新などとてもままならない。本来ならこうした体制の根本的改革に早急に取り組まなければならないのに、町長など逃げ回るばかりだ。これはたとえ今すぐ体制改革されたとしても、抜本的な設備更新はそれから何年もかかることなのだ。つまり屋久島では今後5年や10年は停電続きということは確実だ。そうこうしているうちに破滅的な停電が起きるかもしれない。

私はこうしたことを何年も指摘し続けてきた(屋久島再生)。客観的、大局的そして構造的に突き詰めた主張を並べたつもりだったが、残念ながらごくわずかな人にしか理解されなかった。私は執念深い方だが、これではたとえ10年続けたとしても何も変りそうもない。この秋の選挙で、噂では現町長が7選を目指すという。この人はただ選挙上手というだけで、頭の中には何の戦略もなく、ビジョンも理想も無く、そうしてこの島をこんなに酷くしてしまった張本人なのだ。私には住民たちが立候補を許すこと自体が驚きだ。しかも最有力候補というのだから恐れ入る。

屋久島の人たちにとっては、きっと世界遺産の看板などもらわなかった方がよかったのだろう。自分で考え、自ら努力しなければならないという当たり前の精神が養われたはずだ。上から看板が降ってきて、世間からちやほやされ、何もしなくてもどんどん観光客が増え、それなりに経済が活性化し、浮かれ、思い上がってしまったのだろう。

しかしもうバブルは破裂しそうだ。屋久島は沈没する、せっかくの資源を生かせず、頼みの観光業もしだいに衰退し、人口減少と老齢化が加速されるだろう。まあそうなっても年金暮らしの私にはどうということもない。世間から離れ、自然に囲まれた自分の暮らしを守ればよいだけだ。しかしこのような風土に、このような人たちと一緒にいることに耐え難いような気がしてくる。自ら何もできないまま乞食やエゴイストの一員になりたくない。ならばもうこれまでだ。永住の地を求めてさらにさすらい続けるしかなさそうだ。
posted by 夜泣石 at 10:03| Comment(12) | 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2011年03月21日

ミル茶の作り方

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少し前にNHKの「ためしてガッテン」でミル茶(粉末茶)を紹介していた。細かく粉砕した茶葉をお湯に溶かして飲むものだが、健康効果抜群ということだった。実は私は以前よりそれを愛飲している。その経験から、多くの人があの番組を見て飛びついたとしても、きっとじきに放り出すだろうなと思った。あれだけの情報ではなかなか思うようにはいかない。そこで皆様の健康のために私の経験を公開してみようと思う。

まずミルサー(粉砕器)の選択。さまざまな機種があるが、たいていはふりかけ作りやコーヒー用のもので、お茶に使うには粉砕の度が粗すぎる。番組でも言っていたが、口にザラザラが残っておいしいものではない。お茶をおいしく飲むためにはかなり細かく砕く必要があり、そのためには茶葉粉砕専用の容器が付いていて、また高速回転できるものが必要だ。以前探した時はまともと思われる製品は2種類しかなかった。私の選んだ方は正価はかなり高かったが、もうずいぶん前の製品のためか通販で1/3ほどになっていて、配送料なしで6300円余で買えた。

なお茶挽き専用の器械もある。それだと本当に微粉末になって抹茶ができるようだ。抹茶は普通のお茶とは違う飲み物といった感じでがぶ飲みには向かないと思う。また味も強く出るため溶かす粉の量はかなり少なくなる。それではお茶の成分をたくさん摂る、といった目的には向かない。ミル茶は基本的には普通のお茶の味だから朝から晩までがぶ飲みできる。またあっという間に作れるし、準備も後始末もほとんど不要だから忙しい人にももってこいだ。ミルサーは容器に半分ほど茶葉を入れて1分ほど回すだけだ。ただ隅に入った茶葉が十分粉砕されないことがあるので、途中で一度止めて容器ごと振って中をかき混ぜると良い。

茶葉は本来の苦味、渋味がかなり強く出る。どうも高級品ほどその傾向が強いようだ。また普通の茶葉だと軸の部分が十分粉砕しきれないでザラザラが少し舌に残る。いろいろ試した結果、最初から細かくなっている粉茶が向いていることが判った。粉茶は製茶の過程で出る茶屑だから価格もずいぶん安い。その粉茶でも上級品は苦味が強い。「お寿司屋さんのお茶」とか書いてある安いものの方がまろやかだ。ただ粉茶は当り外れが大きく、古いお茶のような劣化した香りのものもよくある。ネットで売っているそれなりの会社のものにひどいのがあったりした。もともと広く流通している商品ではないようなので、身近で手に入るものを自分でいろいろ試さないとならないだろう。ある程度の町ならおいしい自家製のお茶を作っている店がある。私も今度鹿児島本土に行く機会があったら、いろいろ買い集めてきたいと思っている。

私が今飲んでいるのは近くのAコープで売っている鹿児島産の200gで420円のものだ。鹿児島の人ならすぐ買えるだろう。これはかなりまろやかなので、それで物足りない時は、倍ほどの価格の屋久島産の粉茶か、ネットで買った芽茶を少し足している。普通のお茶は100gで1000円以上くらいでないとおいしくないが、これでそれに負けないくらいの味を楽しめる。極めて経済的でがぶ飲みにはぴったりだ。ただし残念というか当然というか、お茶のあのすばらしい香りはほとんど消えてしまっている。なお、茶葉は本当は溶けたわけではないので湯飲みの底にかすが溜まる。それが口に入るとさすがにおいしくない。私はいつも湯飲みを揺すってお茶を回し、かすが沈殿しないようにして残らず飲み干している。

1日2回ほど粉砕して作り置きしているのだが、気分によって濃いも薄いも自在であり、またいつでも粉を溶かせばよいという気楽さで、茶葉の消費量は以前の倍上になっている。しかも茶葉を捨てることなく全部飲んでいるので、お茶の成分の摂取量は10倍以上になっているはずだ。「ためしてガッテン」の話からすれば、これで地震にでも遭わなければ、私の寿命は数年は延びたはずなのだが。

ところで私は幼い頃の数年を静岡の金谷というところで育ったのだが、そこは今話題の掛川の近くで、それよりもっとお茶の本場といったところだ。そのためか幼い頃からずっとお茶を飲み続けている。それも手に入る限りは深蒸茶だった。ビール用の大きなマグカップでそれこそ1日中飲んでいる。私は幼い頃はいわば虚弱体質で、胃腸など生まれつき弱い方だ。しかしこの何十年間、病気で寝込むといったことは一度もない。数年前の眼病とたまの痛風以外は医者にかかったことはなく、ふだんは薬など一切飲まない。トレーニングとかサプリメントとか、何か健康のためにお金を使うこともない。こんな生活が送れるようになったのは、もしかしたらお茶のおかげなのかもしれない。もともとがこんなだったので、ミル茶にして効果があったかどうかは定かでない。ただ肌の張りが少し出てきたような気がする。もともと私は年の割には皺やシミの少ない方だが、それでも老化は進んでいっておかしくないのに、最近はかえってみずみずしさや滑らかさを少し取り戻してきたように感じている。
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2011年01月16日

モッチョム岳の石の顔

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我が家の裏にはモッチョム岳がそびえている。その山頂に顔がある。どういうからくりなのか、2つの目玉がしっかりこちらを見つめている。口や耳もはっきりしている。ただ残念なことにいささか人間離れしている。というよりゴリラにそっくりだ。

この山は花崗岩の塊で、壊れやすく大きな塊が落下する。そのためいろいろな造形が見られる。その中から特に顔の形を見つけ出してしまうのは我々の特性だそうだ。ヒトの脳は進化の適応上、顔の認識能力が進んだ。脳は個々の形を分析して顔と判断するのではない。脳の中に顔のパターンがあって、それに当てはめてだいたい合えばすぐに顔と決め付けてしまうのだそうだ。そのため我々はいたるところに顔を見出してしまうことになる。しかしこのゴリラは、たとえそんな能力がなくても顔と認識してしまえそうなほどよくできている。

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我が家の方向からは他にも2つほど見つけられる。中腹には細長いが明らかに人間らしい顔がある。こちらはどちらかといえば聖人君子と言えそうだ。残念ながら岩の崩壊が進み過ぎてだいぶ崩れた顔になってしまった。

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この冬は、暑かった前の夏の分を取り戻そうとしているかのように、近年にない冷え込みが続いている。いつもなら年に一度あるかないかのモッチョムの積雪も、今年は珍しくもなくなってしまった。今日もまたゴリラも聖人もすっかり白髪になっている。

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この地に移り住んで、守り神のようにそそり立つ山に顔を見つけて、私は小学校の国語の教科書を思い出した。「大きな石の顔」といった題名の話だった。小さな村を抱くようにそびえる山に高貴な感じの大きな石の顔があった。いつかそれにそっくりな偉人が現れるという伝説が伝えられていた。その地に生まれ育った一人の少年が、偉人と出会えるのを楽しみに毎日その顔を眺めている。少年は誠実に純朴に暮らし続け、そのまま年老いていった。老人の話す言葉は気高く慈愛に満ちて、いつしか多くの人が聞きに来るようになった。そしてついに人々は気が付くのだった。その顔が山の顔にそっくりだということに。

昔の教科書の内容など、まずほとんど覚えていない。なぜこの話だけがこんなにはっきり思い出せるのだろう。ネットで探したら何人もの人が記事を書いていた。知らなかったがこれは「緋文字」などの作品で有名な米国の作家ホーソーンの短編小説だった。驚いたことに日本語訳も載っていた。読み返してみて、その教訓じみた多くの言葉の羅列にはいささか辟易した。どうも教科書の抄訳がすばらしかったようだ。ともかくこれは人の真の偉大さとは何か、ということを問いかけていたのだった。それはあの戦後復興期の、すさまじい勢いで豊かになっていった時代に求められた一つの心の拠りどころであった気がする。あれから半世紀、豊かさに倦み、それが失われていく不安に怯え、我々はすっかりそうした心性をなくしてしまったように思う。
posted by 夜泣石 at 10:15| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2011年01月02日

心の中の時間

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雪雲の隙間に初日の出

一つの年が終わり、また新しい年が始まる、そういうことに特に感慨など感じなくなってしまったのはいつの頃からだったか。ただ淡々と同じような日々が続いていく。いや何も感じないというのは嘘になる。月日の経つことの早さ、それが年々加速していくことには深い感慨がある。寒いなと思っていると気が付けば暖かくなっていて、すぐに暑すぎる日が来て、そしてふと涼しさを感じたと思うと、あっという間に年の終わりになっている。

毎日何もしていないわけではない。いやむしろ若い時より充実した毎日を送っている。規則正しい生活の中で、多くの時間、何か書いたり読んだり調べたりしている。庭で作業したり、あちこち歩いて写真を撮ったり、そうした成果も間違いなく積み上がってきている。それなのにそれだけの時間を過ごしたという感じがしない。この実在感の希薄さはいったいどうしたことだろう。昔は、ぼんやりと物思いにふけったり、当てもなく町をさまよったりすることがよくあった。そんな無為の時間が多かった若い頃の方が、かえって一日を長く感じたのは、いったいどういうことだろう。

心の中で時間の長さは、やったことではなく感じたことの量で計られる。きっとそんなことなのだろう。無為の時間は、実は心の中では感情が高まっていたのだった。不安であったり感動であったりするものに圧倒されて、何も手に付かなかったのだ。そうした激しい気持ちの揺れが弱まってきたから、落ち着いてやりたいことができるようになったのだろう。いつの間にか強い感動など求めなくなった。私は読書をよくするが、あまりにも悲しい話、切ない話、ハラハラドキドキする話、若い頃好きだったそうしたものを今は手に取る気もしない。

心の中が穏やかになって、静かで平穏な日々が訪れる。そうして最期の日に続いていく。それはきっと幸せということなのだろう。しかしそれでもなお心の底に鈍い疼きのようなものがあるのはどうしてだろう。まだまだ昔を引きずっているということなのか。いやこれだけは決して消えないような気がする。それはこうして生きて衰えていくことへの、そこはかとない悲哀のようなものだと思うから。
posted by 夜泣石 at 06:35| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

時計のこと

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オオミノトケイソウの一種。冬でも次々に咲く

私はきっちりしているのが好きなせいか、若い頃から時計はデジタル式を愛用していた。厳密に時刻が判るし、また正確に合せられる。昔の時計は秒針と長針がちゃんと同期していないのが多かった。それにコチコチ音が結構大きく机の上などに置くと気に障った。

それが最近になって、何か違和感のようなものを感じるようになった。何かしていて、あとどのくらい時間があるかなと机の前の時計にちょっと目をやった時、ふと頭がぼっとしたりくらっとしたような気分になったりする。きっとそれは、次の予定時刻から今の時刻を引き算しなければならないからだと思う。そんなことは昔は全く無意識だったが、もしかしたらそういう能力が衰えてきたのかもしれない。そういえば若い時でも徹夜仕事が続いた時など、残り時間がすぐに判らず、しばし数字を眺めてぼんやりしていたこともたまにあった。

昨年末、針のある時計に買い換えてみた。たったそれだけのことなのだが、なんだかほっとした気分、大げさに言えば安らぎのようなものを味わってしまった。そもそも今の生活では正確な時刻が要求されることなどほとんどない。だいたいの時刻と、それより次の予定まであとどのくらいかという時間が知りたいのだ。それにはアナログ式がぴったりなのだった。幸い今はアナログ式でも電波時計で時刻合せは不要だし、心配していた耳障りな音もほとんどしない。

時計を変えてうれしく思ったことは一年ほど前にもあった。長年使っていた枕元の置時計が壊れかけたので代替品を探したのだが、その時、夜間わずかな照明で数字を照らす機種が目に留まった。これだと思った。深夜に眠りが浅くなって、ふと今何時頃かなと思う時がある。また明け方目が覚めて、あとどのくらい寝ていられるかなと思うことがある。そういう時いちいち明かりを付けて確認するほどでもなく、しかし気になったままぐずぐずしていることがよくあった。それはどうも落ち着かない後味の悪いものだった。この時計に変えてからは、夢うつつでもふと目をやればすぐに何時か判る。ずいぶん気分がすっきりした。また夜トイレに起きた時でも、枕元をかすかに照らしていてくれるのでベッドの位置や掛け布団の状態がよく判るのだった。

ところで我が家の時計は買い換えるとき、どれも温度計と湿度計の付いているものにしていった。別に観測とか実験とかしているわけではないが、それを見て、ああこんな暑くなったとか寒くなったとか、部屋ごとの差とか、またたいして低くないのになぜこんなに寒く感じるのだろうとか、その反対のこととか、ふと思ったり感じたりすることが時々ある。そんな些細なことだが、日々の暮らしにちょっとした感慨めいたものを増やしてくれたように思う。

こういうささやかな日用品なのに、とてもうれしく思ったり、暮らしが豊かになったかのように感じるものがある。数千円で買えて、しかも10年、20年使い続けるのだから金額的にはわずかなものだ。もはや高価なもの、きらびやかなものなど欲しいとは思わないが、こういうさりげなく毎日の生活に役立ち心を豊かにしてくれるようなものはまだまだあるような気がして、PC作業の息抜きにあちこちのサイトを覗いたりしている。

ところで今のような隠遁生活になぜ時計など必要かとも思う。実際、腕時計など身につけるのは月に一度あるかないかだ。何の制約もないのだから、眠たくなったら眠り、目が覚めたら起る、食べたいときに食べ、何でもその時やりたいことをやればよいはずなのに。ここに来る前はそんな時間などに縛られない生活を夢想することもあった。しかし今の生活はきちっとしている。特別な予定とか外から乱されることはほとんどないから、都会にいたときよりもずっと規則正しい。これは勤勉な生活をしてきた習い性のようなものだろうか。いや幸いなことにやりたいことがたくさんあるからだと思う。それらは規則正しくなければ一日に納まりきれないのだ。そうした単調だが充実した毎日が心地よい。それが乱されたくなくて、たとえば年末年始も忘年会や新年会の類など一切避けてきている。
posted by 夜泣石 at 10:20| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2010年01月01日

自分無くし

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我家から眺める初日の出

「毎日、何がうれしい?何か楽しいことがある?」と聞かれて面食らった。そんなこと思ってもいなかった。幸せとか生き甲斐とか、そういえば昔はよく考えたものだったと改めて思い出した。それどころかいつも、今の自分は本当の自分ではない、自分らしく生きたいなどと思っていた。そしてそんな夢のようなことを追い求めたあげく、こんな南の島に移り住んだのだった。

そうした屋久島生活も8年目に入った。しかしもうずっとここにいたような気がする。その前に都会でどんな生活をしていたのか忘れかけている。いやあいまいなのは昔のことだけではない。屋久島に来てからも、それどころかこの一年にあったはずのいろいろなことまでも、もうずいぶん以前のことのようにおぼろげなのだ。月日の経つのがあまりにも早く、過去はすべて遠近感を無くしてひとまとめになって、遠くに押しやられてしまったかのようだ。

それはこのところの毎日が、何かを求める生活ではなかったからだろうか。一つ一つ努力の足跡をくっきり地面に刻んでいたら、遙かな一続きの道を振り返ることにもなったのだろう。今は地上にしっかり立っている感じすらしない。振返れば遠くにさんざんのたくったような跡があるのだが、いつからか宙に浮かんで、ふわふわと流されてきてしまったかのようなのだ。

もちろん何もしてこなかったわけではない。いや何もしない日々を願ったのだが、実際はずっと忙しい毎日を送ってきてしまった。世捨て人になるつもりだったのに、世間のことに係わり合いができて振り回されてしまった。身の回りのことでも、もう何も欲しいものなどなくしたはずなのに、何やかや買ってみたり新しい事に時間を潰したりしている。そうして思い描いていたはずの自分らしさなど見失って、相変わらず右往左往している。しかしそれはかつてのように地上でもがいているというのでなく、なんだか空中を右に左に漂っているような感じなのだ。そんな毎日があわただしく過ぎ去っていくのだが、なぜかそれがどこか心地よい。

何をするのにも、大きなことでも小さなことでも、昔はいろいろ理由を考えたものだった。夢とか理想とか自分らしさなど追い、充実感とか達成感を求め、そして肩肘張って意固地になっていたものだった。しかしいつのまにかそういうこだわりをなくしてしまった。目の前のこと、必要なこと、やりたいこと、求められること、何でも自然に受け入れるようになった。そうしたすべてが自分の生きる役割でもあるように、素直に引き受け淡々とこなしていく。さんざん自分探しをし、また自分作りをしたあと、どうやら自分無くしにたどり着いたような気がする。それはただ年を取っただけかもしれないが、それなら年を取るというのもなかなか良いもののように思う。この先もまた、世の中も自分もどんどん変っていって、いつかふと思いがけない自分の姿に気付くことになるのだろうか。
posted by 夜泣石 at 10:54| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする
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