2011年01月30日

ツグミ

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防波堤に一羽の小鳥がじっとしていた。きれいな茶色の縞模様、何より胸の黒いうろこ模様が目立つ。ツグミだった。

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遠くからだと同じ茶色のシロハラと混同する。仕草や様子も似ている。実はこの2種はごく近い仲間だった。しかしよく見ればシロハラの色はくすんでいて、体もだいぶ太り気味だ。かわいらしさではツグミ方がずっと上だ。ただ鳴き声だけはシロハラに軍配が上がる。この仲間はだいたい声が良いのだが、ツグミはカッカとかキキキといった感じで大きく甲高い。ただこれは警戒の声で、春のさえずりはそれなりに良いのだそうだが、なぜか聞いた覚えがない。

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鳥見を始めた頃、ツグミの見分け方として「だるまさんがころんだ」と教わった。餌を探して地上を何十歩か走ったりぴょんぴょん跳ぶと、突然立ち止まってぴたっと静止する。胸を張って何食わぬ顔でしばらくじっとしている。それからまた思い出したように動き出す。そんなことを繰り返すのが子供の遊びにそっくりなのだ。これは警戒心が強くて、回りをうかがっているのだそうだ。写真を撮りたくてもあまり近寄らせてくれない。なぜかここでは東京などよりずっと人なれしていない。シロハラがどんくさい感じで、目の前でぐずぐずしていたりするのとずいぶん違う。シロハラはこの島のいたるところにうじゃうじゃといるので警戒などしていられないのか、あるいはそれだけ個性の幅が広いということだろうか。

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ツグミは本土では馴染みの鳥だった。秋には大群を見かけたし、冬の都会の公園などには普通にいた。しかし屋久島ではいつもはあまり見かけない。ところが今年はずいぶんたくさんいる。もともとシベリアなどで繁殖して、越冬のため日本に渡って来るのだそうだ。例年なら本州で十分越冬できるのだが、今年の冬は異常に寒い。それで彼らはいつもよりずっと南に来たのではないだろうか。もしかしたらこの冬は東京などではあまり見かけないのかもしれない。
posted by 夜泣石 at 07:02| 生きもの | 更新情報をチェックする

2011年01月23日

メキシコハナヤナギ

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例年にない寒さの冬でも、メキシコハナヤナギはけなげにも咲き続けている。1cmほどの小さな花だが、細い枝にびっしりと咲き、また多くの枝がこんもりと茂るから、株全体がピンクに染まる。小さな木で高さは膝くらい、大株でも腰くらいにしかならないが、遠くからでもよく目立つ。屋久島に来てそこら中にあるのを見て、気にはなったがなかなか名前が判らなかった。まず何の仲間か見当が付かない。

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ある時たまたまネットで見つけてやっと名前が判った。所属はミソハギ科だった。その仲間は種類が少なく、よく見かけるものはサルスベリぐらいだ。しかし木の様子も花もまるで感じが違うので判らなかったのも無理はない。

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メキシコの名の通り中米原産だそうだ。熱帯〜亜熱帯性ということだが、意外に寒さに強いので高地性でもあるような気がする。屋久島の真夏の暑さは苦手のようで、花どころか葉も落とすほどだ。しかしそれ以外の季節は小さな緑の葉を形よく茂らせ、だいたいいつも咲き続けている。一番きれいな季節はもちろん春と秋だ。

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これだけ咲いても、果実や種子を見た覚えがない。花を拡大してみると、雄しべは盛んに花粉を出しているが、雌しべは外から見えない。ふと、ミソハギは異形ずい性の典型例であったことを思い出した。つまり株によって雌しべの長さの違う型があるのだ。同家受粉を避ける仕組みで、違った型同士でないと受粉できない。もしかしたらこの辺りにあるのは雌しべの短い型ばかりなのかもしれない。

この木は挿し木で簡単に増やすことができる。道端などの思わぬところに生えているのは、剪定して捨てた枝が根付いたのではないかと思うほどだ。この島の梅雨時など、そういうこともあり得るのだ。そうやって増えていったから、屋久島で見かけるこの木は、もしかしたらある時持ち込まれたたった一本が元になっているのかもしれない。

この花を最初はメキシコハコヤナギ、つまりハナ(花)でなくハコ(箱)と覚えたのだった。しかしそのうち、ハナヤナギと記している例も多いのに気付いた。特に園芸関係ではだいたいハナになっている。もともとハコヤナギとはポプラの仲間のことで、材が柔らかく箱などに加工しやすいからだそうだ。それからするとこの木にハコヤナギは全く似つかわしくない。それにもともとヤナギとは縁もゆかりもなく、ただ葉の様子が似ているということだけだそうだ。柳のようで花一杯ということなら花柳の名が似つかわしい。なお、柳というとしだれ柳のように細長くなよなよした葉を思い出すが、そんな大木にならない種類にはこのような小さな葉を密生させたものが多い。

屋久島の冬は例年なら寒い日があっても数日と続かない。特に島の南東側では、北風が中央の山に遮られてぽかぽか日和になることが多い。我が家では真冬でも日中は暑くて窓を開けたりしたものだった。しかし今年はほとんど曇り空ばかりで全く暖かくならない。パパイヤもパイナップルも葉が黄色くなってきてしまった。こうした熱帯性の草木が枯れてしまわないうちに、早く暖かさが戻ってきて欲しいと切実に思う。
posted by 夜泣石 at 09:17| 花草木 | 更新情報をチェックする

2011年01月16日

モッチョム岳の石の顔

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我が家の裏にはモッチョム岳がそびえている。その山頂に顔がある。どういうからくりなのか、2つの目玉がしっかりこちらを見つめている。口や耳もはっきりしている。ただ残念なことにいささか人間離れしている。というよりゴリラにそっくりだ。

この山は花崗岩の塊で、壊れやすく大きな塊が落下する。そのためいろいろな造形が見られる。その中から特に顔の形を見つけ出してしまうのは我々の特性だそうだ。ヒトの脳は進化の適応上、顔の認識能力が進んだ。脳は個々の形を分析して顔と判断するのではない。脳の中に顔のパターンがあって、それに当てはめてだいたい合えばすぐに顔と決め付けてしまうのだそうだ。そのため我々はいたるところに顔を見出してしまうことになる。しかしこのゴリラは、たとえそんな能力がなくても顔と認識してしまえそうなほどよくできている。

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我が家の方向からは他にも2つほど見つけられる。中腹には細長いが明らかに人間らしい顔がある。こちらはどちらかといえば聖人君子と言えそうだ。残念ながら岩の崩壊が進み過ぎてだいぶ崩れた顔になってしまった。

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この冬は、暑かった前の夏の分を取り戻そうとしているかのように、近年にない冷え込みが続いている。いつもなら年に一度あるかないかのモッチョムの積雪も、今年は珍しくもなくなってしまった。今日もまたゴリラも聖人もすっかり白髪になっている。

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この地に移り住んで、守り神のようにそそり立つ山に顔を見つけて、私は小学校の国語の教科書を思い出した。「大きな石の顔」といった題名の話だった。小さな村を抱くようにそびえる山に高貴な感じの大きな石の顔があった。いつかそれにそっくりな偉人が現れるという伝説が伝えられていた。その地に生まれ育った一人の少年が、偉人と出会えるのを楽しみに毎日その顔を眺めている。少年は誠実に純朴に暮らし続け、そのまま年老いていった。老人の話す言葉は気高く慈愛に満ちて、いつしか多くの人が聞きに来るようになった。そしてついに人々は気が付くのだった。その顔が山の顔にそっくりだということに。

昔の教科書の内容など、まずほとんど覚えていない。なぜこの話だけがこんなにはっきり思い出せるのだろう。ネットで探したら何人もの人が記事を書いていた。知らなかったがこれは「緋文字」などの作品で有名な米国の作家ホーソーンの短編小説だった。驚いたことに日本語訳も載っていた。読み返してみて、その教訓じみた多くの言葉の羅列にはいささか辟易した。どうも教科書の抄訳がすばらしかったようだ。ともかくこれは人の真の偉大さとは何か、ということを問いかけていたのだった。それはあの戦後復興期の、すさまじい勢いで豊かになっていった時代に求められた一つの心の拠りどころであった気がする。あれから半世紀、豊かさに倦み、それが失われていく不安に怯え、我々はすっかりそうした心性をなくしてしまったように思う。
posted by 夜泣石 at 10:15| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

イソシギ

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我が家からの散歩コースにある漁港では、一年中イソシギの姿を見かける。ムクドリなどより一回りは小さく、くすんだ茶色の地味な鳥だが、この日は珍しく優雅な姿を見せてくれた。いつもは短くつんと尖っているだけの尾羽が飾りのように広がっている。ステップを踏むように片足を持ち上げているのもちょっとかわいらしい。お腹が真っ白で、それが肩の辺りまでぐっと回りこんでいるのがしゃれた感じだ。この特徴がイソシギの見分けのポイントになっている。

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イソシギはあまり飛ばない。近付くと低く滑空して少し逃げるぐらいだ。もっぱら歩き回っている。波の中にもどんどん入っていく。時折ざぶんと頭を突っ込む。魚ではなく石の下の小動物を捕まえているのだそうだ。

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しかしそれより陸上を歩いていることの方が圧倒的に多い。波に打ち上げられたゴミの山を突きまわしている。また水辺からかなり離れた道路上や畑などでちょこちょこしているのを時々見かける。イソシギという名前の割には、磯とはあまり関係のない鳥だ。

この鳥を見かけて、最初はチドリかと思った。シギというのは普通はもっと大きめで、足と嘴の長さが目立つものだ。動きももう少し悠然としている。まあこの鳥もよく見れば嘴はチドリの仲間よりだいぶ長い。歩き方も千鳥足でなく直線的ではある。屋久島ではシギもチドリも多くの種類が見られる。しかしほとんどは旅鳥で、春と秋の渡りの途中に立ち寄るだけだ。一年中いるのはたぶんこのイソシギだけだろう。またいつもほとんど単独でいる。たいていこの仲間は大群を作るものなのだが。

この鳥の名前がイソシギだと判った時、まさかと思った。私の若い頃「いそしぎ」という題名の歌がずいぶんはやっていた。ラジオからも町を歩いていても、ひっきりなしに聞こえていたものだ。英語の歌詞で意味はよく判らなかったが、いかにも甘くロマンチックな響きは若者の心を捉えるのに十分だった。なんでも同じ題名の外国映画の主題歌だったそうで、広い浜辺に無数の小鳥の群れ飛ぶ映像や写真もよく目にした。その懐かしい思い出とこの鳥とは、その印象にしても習性にしてもあまりにもかけ離れている。

不思議に思ったら、実は元の英語の題名はシギ一般を指して、イソシギという特定の種類の名前ではないということだった。日本語にする時、翻訳者がイソシギという名前を当ててしまったのだ。「シギ」というだけではどうも短かすぎる。ミユビシギとかキアシシギなど説明的すぎる。かといってトウネンなどでは何のことか普通の人には判らない。図鑑を見ていくと歌の題名になりそうなものはハマシギかイソシギくらいしかないのだった。映像に合うのは間違いなくハマシギなのだが、語感からするとイソシギの方がずっと詩的だ。

そういうことでイソシギという名前が一人歩きしてしまったようだ。実物とはかけ離れたイメージが人々の間に定着してしまったわけだ。しかし改めて歌詞を読んでみると、羽の折れた一羽の鳥ということで、群れである必要はなかった。また孤独な日々に鳴き声が繰り返し聞こえるとあった。これはイソシギであって悪くない。イソシギの鳴き声はチーリーリーといった細く澄んだ横笛を思わせるような音色で、かわいらしいがどこか哀愁を感じさせるほどのものなのだから。
posted by 夜泣石 at 06:42| 生きもの | 更新情報をチェックする

2011年01月02日

心の中の時間

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雪雲の隙間に初日の出

一つの年が終わり、また新しい年が始まる、そういうことに特に感慨など感じなくなってしまったのはいつの頃からだったか。ただ淡々と同じような日々が続いていく。いや何も感じないというのは嘘になる。月日の経つことの早さ、それが年々加速していくことには深い感慨がある。寒いなと思っていると気が付けば暖かくなっていて、すぐに暑すぎる日が来て、そしてふと涼しさを感じたと思うと、あっという間に年の終わりになっている。

毎日何もしていないわけではない。いやむしろ若い時より充実した毎日を送っている。規則正しい生活の中で、多くの時間、何か書いたり読んだり調べたりしている。庭で作業したり、あちこち歩いて写真を撮ったり、そうした成果も間違いなく積み上がってきている。それなのにそれだけの時間を過ごしたという感じがしない。この実在感の希薄さはいったいどうしたことだろう。昔は、ぼんやりと物思いにふけったり、当てもなく町をさまよったりすることがよくあった。そんな無為の時間が多かった若い頃の方が、かえって一日を長く感じたのは、いったいどういうことだろう。

心の中で時間の長さは、やったことではなく感じたことの量で計られる。きっとそんなことなのだろう。無為の時間は、実は心の中では感情が高まっていたのだった。不安であったり感動であったりするものに圧倒されて、何も手に付かなかったのだ。そうした激しい気持ちの揺れが弱まってきたから、落ち着いてやりたいことができるようになったのだろう。いつの間にか強い感動など求めなくなった。私は読書をよくするが、あまりにも悲しい話、切ない話、ハラハラドキドキする話、若い頃好きだったそうしたものを今は手に取る気もしない。

心の中が穏やかになって、静かで平穏な日々が訪れる。そうして最期の日に続いていく。それはきっと幸せということなのだろう。しかしそれでもなお心の底に鈍い疼きのようなものがあるのはどうしてだろう。まだまだ昔を引きずっているということなのか。いやこれだけは決して消えないような気がする。それはこうして生きて衰えていくことへの、そこはかとない悲哀のようなものだと思うから。
posted by 夜泣石 at 06:35| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする
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