2009年07月29日

クワズイモ

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屋久島の里で一番目立つ草と言えばクワズイモだろう。何しろ大人の傘にでもなりそうなほどの大きな葉だ。おまけに蝋でも塗ったようにつやつやしている。そんなものがちょっとした木陰など、ところ構わずあちこちを占領している。根元など太くごつごつして、年輪を重ねた老木のようだ。

若い頃南の島など旅して、こののびのびと茂っている葉に出会うと、南国に来たなと実感したものだった。それは奥深い緑の象徴のようにも思われ、なかなか好ましくも感じられた。しかし今やそんな気持ちには全くなれない。あまりにも身近にあまりにも我が物顔にありすぎるのだ。こんなものが都会では観葉植物として喜ばれているなど、とんでもないようにも思う。もちろんそれは極小の苗のことなのだけれども。

それにクワズイモは有毒で、葉をちぎって汁に触れるだけでも手が腫れるくらいだそうだ。だから何でも食べる鹿も食べない。彼らによってきれいに除草されたような林の中に、これだけが巨大なオブジェのように茂っている。虫たちも敬遠するのか、大きな葉に傷一つ無い。このあたりのバッタなど、それこそ何でも囓ってしまうのに。

それでも花が咲くと意外にかわいらしい。淡いクリーム色の頭巾をすっぽりかぶって、細い未熟なトウモロコシのような花序がそっと隠れている。本当はこの小さな粒々の一つ一つが花で、それも見えているのは雄花だけだそうだ。雌花は下のふくらみの中にすっぽりと隠されている。ということは虫たちはまず雄花に惹かれてやってきて、次に隙間を見つけて下の包みの中に潜り込むことになる。どんな虫がどういう誘惑でそうするのか、よく見かける花なのだが見当も付かない。

ともかくちゃんと受粉はするようで、やがて頭巾は枯れて、しばらくするとその下の緑の包みがめくれてくる。中から今度は毒々しいほどの赤いつぶつぶが飛び出してくる。この赤い実は鳥たちに食べられて散布されるのだろうか。毒だらけの植物なのに、この実にだけは毒はないのか。それとも鳥たちだけはこの毒に平気なのか。こんな当たり前な植物でも、判らないことだらけなのに改めて驚かされる。
posted by 夜泣石 at 06:56| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年07月26日

正しい理解と判断

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巻雲、巻積雲、高積雲、積雲

屋久島町長告訴は結審になり、判決待ちになっている。町長は判決を見て出所進退を考えると言明している。取り巻き議員たちも、町長を信じている、もし裁判に負けるようなことがあったらその時考える、などと言っている。しかし改めて考えてみるとそんな言い方はおかしい。そもそも判決とは神の声だろうか。そしてそれに絶対に従うのだろうか。いやそんなことはないはずだ。きっと町長は負けたら控訴するだろう。取り巻き議員たちも不当な裁判だなどと言いふらすだろう。

もともと裁判官は神などではないから、その判決に異議が出ても当然だ。だから一般市民の良識を取り入れようと裁判員制度など始めたくらいなのだ。各自がそれぞれ考え、自分なりの判断を持って当然なのだ。それは裁判官の判断と並行して行うべきものであり、ということは判決を見てからというのは、何も考えていないか、あるいは何か下心があるかのどちらかになる。

誰もが正当な判断が可能になるのはいつの時点か。それは結審した時だ。結審とはお互いの言い分が出尽くしたということだ。裁判では双方の主張はすべて文書化されているから、それらをしっかり読んで理解すれば、自らの良識で何が正しいか判断することができる。町議会議員選挙が迫った今、本来は有権者全員がそれをして、自分の考えに合った人を選ぶべきだろう。そもそもそうでなければ民主主義など成り立たない。といっても現実問題としてそれは無理だろう。しかし少なくとも立候補者には全員それが求められてしかるべきだ。町政におけるこれほどの大問題を正しく理解し判断できなければ議員の資格などあるはずがない。

皆が内容を理解しなければならない理由はもう一つある。いずれ判決が出て、それがもし原告の敗訴であったとしても、その理由が「出訴期間の徒過」であったとしたら、日高十七郎は潔白だったということにはならないからだ。それは違法行為はあったが時効だったというだけだ。我々は罪を犯した人がそれなりに罰せられれば許す気にもなれる。しかし時効だったら一般感情として、悪いことをしておいてしかも逃げおおせたということで、更なる悪人として許せないという気になるだろう。だいたいこの裁判では、被告の弁護士は裁判官にたしなめられても、終始その弁論の過半をこの点に充てていた。ということは本案では勝ち目がないので時効で逃げまくろうとしたと認めているようなものなのだ。

我々原告側はその主張を、つまり公式に裁判所に提出したものすべてをネット上に公開している。また被告側の提出した資料と共に、報告会などで全員に配っている。まず現職の議員は全員それらを読むべきだろう。読むのが大変だというなら説明会を開催してもよい。あるいは議会の全員協議会で勉強会を開いたらどうか。最終的な判断は各自に委ねられるとしても、客観的な事実を正しく理解し、その上で人を説得できる理論を展開しなければならないはずだ。また裁判の過程で議会が役に立たなかったこと、それどころか住民を裏切る行為に荷担してきてしまったことがあぶり出されている。こういうあやまちを繰り返さないためにも、議員には過去の事例を勉強してもらう必要があるのだ。
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2009年07月23日

皆既日食

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皆既日食時、東からの光に南海上で積雲が浮かび上がる

もう7年も前、田舎暮らしの地を探しに屋久島に立ち寄った時、ここでは皆既日食が見られると聞いた。それが移住先にこの島を選んだ理由の一つになった。また3年前に家を建て増ししたのも、最初の家では空がよく見えなかったことがその動機の一つだった。そうやって準備を重ねてきたその日がついにやってきた。

7月に入って屋久島はほとんど晴れの日が続いていた。ものごとはずっと同じというわけにはいかないから、これはやばいかもしれないと思った。果たしてだんだん雲が多くなってきて、前日にはにわか雨の繰り返される天気、そしてついに大雨注意報、雷注意報が出てしまった。北の方で猛威をふるっていた前線が下がってきたのだそうだ。

22日当日は未明に少し降ったくらいで、朝はクマゼミの大合唱も聞こえた。いけるかと期待もしたが、モッチョム岳を見ると低い分厚い雲が次々に西から流れてきて山頂を隠していた。ひときわ暗い雲が近付くとぱらぱらと雨が窓を打つ。しかしそれだけなら雲の切れ目から見える時があるかも知れない。問題なのはもっと上空を一面にどんより覆っている雲だった。そのため太陽の位置すら確認できないのだ。

日食の始まる時刻になっても何の変化もない。もう半分以上欠けたはずの頃になっても、単なる曇りの日と変わりはない。そしていよいよ11:00近く、皆既になる頃、にわかにあたりが暗くなった。幸い雨はほとんど止んでいたので、海も山も全天見わたせる物見台の上に立つことができた。モッチョム岳はほとんど影になってやっと輪郭が判るくらい。ぽつんぽつんと地上の明かりが見える。しかし夜のように全体が真っ暗になるのではなく、東のかなたが照明でもあるかのようにわずかに明るい。それに照らされて南の海の上に積雲が浮かび上がる。西の空から上空にかけては深い闇が広がっている。そんな不気味とすら言えそうな時間がしばらく続いた。

ふと明るくなり出したかと思うと、たちまち闇が消えていった。セミや鳥の声が急に騒がしくなり、今まで静寂だったことに改めて気付かされる。その時、ざわざわと音がしてかなりの風が吹き抜けていった。それは波のようにしばらく続いた。ふと寒いと思った。かなり気温が下がっていたようだ。

残念ながら神秘的なほど美しいといわれる皆既の姿を見ることはできなかった。しかし予備知識がなかったら、かなりの恐怖すら感じたであろう情景の中に身を置くことはできた。これはこれで貴重な体験だろう。悔しいのは次の機会がまず無いことだ。我が家には8人が泊まり込んで一緒に見たのだが、そのうち半分は26年後にまた見ることができるだろう。しかし残りは、私も含めて草葉の陰から眺めることになりそうだ。翌日、客人たちは皆そそくさと帰っていった。終ってみるとすべてがあっけなく、大きな祭りの後の虚脱したような気分に襲われた。それは物憂く、しかしどこか心地よくもあるのだった。
posted by 夜泣石 at 11:18| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2009年07月18日

猫物語

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屋久島にはたくさんの猫がいる。といっても、それは海辺の町なら日本中どこでも似たり寄ったりなのだろう。魚屑などが豊富なら餌に困らないし、鼠を捕ってくれる猫は人々にとって重宝なものだ。たいていはちゃんと飼われているわけでも、完全に野良なのでもなく、適当に人と付き合いながら自由に暮らしている。

私はいろいろな生きものを飼うのが好きだったが、しだいに閉じ込めたり死なせたりするのが苦痛になってきて止めてしまった。特に犬は、いつも繋いでおかなければならないのがかわいそうでならない。犬は元々うろつき回るのが大好きなのだ。また群れでいるのが本性なのだ。ほとんどの時間、鎖に繋いでひとりぼっちで放って置くのは虐待以外の何ものでもない。

その点、猫は気ままに好きなことをさせておけるからいい。それでも自分で飼ってすべての運命を預かる気にはなれない。近寄ってきたものを可愛がるくらいがちょうど良いと思っている。ところが都会と違って、この地の野良猫は警戒心が強い。かなり離れていても、目を合わせただけでさっと逃げていったりする。なかなか撫でてやる機会すらもなかった。

昨年の秋、一匹の子猫が迷い込んできた。まだ警戒心がなく、抱き上げて牛乳を与えたりした。そのまま置いておきたかったが、ちょうど出かける用事があり、仕方なく近所の猫屋敷の猫たちの中に紛れ込ませて貰った。しかしそのまま行方知れずになり、ちょっと気になって散歩の時など目で探したりしたものだった。

それから半年以上が経ったこの6月、猫の親子が我が家にやってきた。3匹の子猫たちはこちらを見るなりさっと逃げたが、親猫はそうでもない。どうしたかとよく見て、小さめな三角顔と短い尻尾にはっと思い当った。それは行方不明になっていたあの子猫だった。少し警戒していたが、餌をやると寄ってきた。撫でたり抱いたりしてもおとなしくしている。だいぶやせていたのでキャットフードを買ってきて思いっきり食べさせた。よくまあ生き抜いて、子供まで産んで、そして戻ってきてくれたものだと感動すら覚えてしまった。

親にいつもくっついている白黒茶の三毛の子猫は下半身がびしょ濡れ状態だった。よく見ると右半身がごっそり毛が抜け、腿のあたりは骨が見えるほどの穴が空いていた。よろよろして半分死にかけているくらいだったが、あまり逃げないため、これにも思いっきり食べさせてやることができた。日々見違えるほどぐんぐん健康になって、毛も生えそろってきた。やんちゃで、猫じゃらしなどでからかうと一番よく遊ぶ。

白茶の子猫はすばしっこく警戒心も強かったが、少しずつならしていくうち、ある日を境に一番馴れてしまった。甘えてすり寄ってくるし、撫でてやるとひっくり返ってお腹を出す。白黒の子猫はなかなか馴れない。今でもさわろうとするとさっと身をかわす。顔つきが猫にしてはちょっと下ぶくれしていて、座って後ろ足で首筋を掻く仕草などどこか犬っぽく、色合いからしてもポチと呼んでやりたくなる。

ある日ふと気付くと、大きな白黒の猫が、これまた小さなほぼ真っ黒の子猫を連れて離れた所からこちらを見ていた。4匹目がいたのだった。小さすぎて出歩けないのを父猫が面倒を見ていたのだが、どうやら遠出できるようになったので連れて来た。まさか猫に父性があるとは思わないが、そう想像せずにはいられない情景だった。餌を出すとチビ黒はこわごわやってきて、初めて食べる固形食といった感じで苦労しながら噛み砕いていた。父猫はじっと動かず遠くからそれを見ていた。

あれから1ヶ月、子猫たちはぐんぐん大きくなった。それでも時々母猫のおっぱいをねだる。親とあまり変らない大きさが4匹、押し合いへし合いしながら小さなお腹にむしゃぶりついている。ほほえましいというより、生きるということのすさまじさのようなものを感じてしまう。

猫たちは玄関先やデッキで一日中ごろごろしている。そうかと思えばほとんど来ない日もある。外出から帰ってきた時、出迎えてくれるのはうれしい。いない日はどうしたかなと、お腹をすかしていなければよいがなどと、つい気になって時々外を覗いてみる。しかしともかく、こういう気ままで束縛のないのがいい。ここが気に入ったならいつまでもいればいい。もっと良いところがあったら行ってしまってもいい。

そのうち庭のモグラでも捕ってくれないかと思う。モグラはずっと捕まえ続けて、ついに38匹を数えた。もちろん我が家の庭に最初からそんなにいたわけでなく、捕っても捕っても周りから入り込んで来てしまうのだ。ある日捕まえたモグラを猫たちに渡してみた。こわごわ手を出すだけで、中には逃げ出す猫もいる。ぜんぜんくわえたり食べたりなどしてくれない。やれやれ役に立たない連中ばかりだとがっかりした。そのうち餌を減らして、野性で生きていけるようにしなければならないかと思う。

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posted by 夜泣石 at 06:59| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2009年07月15日

キャットテール

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庭の一角にいつも赤い花が咲いている。草取りの手の届かないそこは、さまざまな雑草の茂るに任せてあるのだが、その中で優勢なものの一つがこの花だ。たぶん何年か前に、小さなポット苗を買ってきてこのあたりに植えたのだと思う。それがいつの間にかあたり一面を覆っている。横に長く這ってその先で根を下ろすので、どんどん周りに広がっていく。通路などにも出てきて、踏みしだかれた赤い残骸が痛々しい。

何だったかとうろ覚えの名で調べて、キャットテールと判明した。猫の尻尾。しかし真っ赤だし、そんなに長さはないから見た感じはそれほどそっくりというわけではない。しかし掴んでみるとなるほどと思う。わりと堅めでしっかりしていて、なるほど尻尾の感触なのだ。

ところでそもそもこれは何だろう。もちろん花であることは間違いないが、よくあるこんな形の花とは様子が違う。普通ブラシ型の花では、毛は雄しべや雌しべなのだ。毛羽立つことでいろいろな虫に触れられるようにして、花粉の媒介をしてもらおうという工夫なわけだ。しかしこの花では毛は先細りになっているだけで、そこに全く花粉のようなものは見えない。

分解してルーペでよく見ると、この赤い毛は珊瑚のように枝分かれしていた。根元は小さな粒になっていて、そこから何本も生えている。どうもこれは花びらの変形したもののようだ。きっとこれらに囲まれて、中に雄しべ雌しべがあるのだろう。残念ながら小さすぎて私にはそれ以上は調べられなかった。

しかしこんな密に絡み合ったフェルトのような層をかき分けて、中に入れる虫などいるだろうか。いたとしてもどうやって花粉を運び出すのだろう。実際この花穗に種が実った姿など見たことがない。しばらくすると黒く萎びて根元から落ちてしまうのだ。こんなに当り前のように咲いていながら、基本的なところで謎を秘めている花だった。

インド原産でトウダイグサ科だそうだ。この仲間には木になるものもあり、植物園の温室では常連のようだ。その花は蛇のように長いという。それなりに栄えている種類のようだから、熱帯にはこの謎を解く秘密の生きものでもいるのかも知れない。
posted by 夜泣石 at 06:40| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

結審

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屋久島町長告訴は7月10日の第7回公判でやっと結審になった。これは予定通りなのだが、公判の直前に被告代理人の弁護士が新たに準備書面を出すと言いだして雲行きが怪しくなっていたのだ。前回の公判の時に、もう何も追加することはないと双方が宣言したから次回で結審と決まったのだ。それを覆すというのは、よほどの新事実が見つかったということになる。いったい何が出てくるのかと、しかも書類がなかなか届かずやきもきさせられた。

何度か催促してやっと3日前に届いたのだが、一読、面食らってしまった。主張を整理する、といって今まで5回に渡って彼らが書いてきたことを、ほとんどそのままコピーして14枚もの書類にまとめてあるだけなのだ。しかもこちらが論駁したことに反論し返してきたところもない。全く議論はなかったかのように元のままか、中には後退すらしているものもあった。

いったいこの弁護士は正気なのか。これが徹夜して作ってやっと間に合わせたという代物なのか。特に本案前の主張ということで出訴期間の徒過ということに半分以上の頁を費やしているが、それは初期に裁判官から退けられたからこそここまで裁判が続けられて来たのではなかったか。もういい加減にして欲しい、いつまでこんな馬鹿に付き合わなければならないのかと、もう論戦は終り書類作りから解放されたつもりでいたから、かなりうんざりする思いだった。

こちらは何も出さなくてもよいかと思ったが、念には念を入れておこう、と思い直してすべてに答えることにして準備書面6を作った。いずれにせよほとんどは「原告準備書面XXで既に論述済みである。それに対し被告は全く反論できていない」で済ませた。そのため今まで出してきた6種類の書類全体の索引のようになってしまった。それらをあちこちひっくり返しながら、我ながらよくもまあこんなに書いてきたなと、ちょっと感慨無量の思いがした。中には今から見ると足りないところ、危なくて冷や汗の出そうなところもあった。

さて書面では、いくつか論述を追加しながら不快感も表明しておいた。「常識を持って文面を読めば間違いようはない」、「証拠もないのに、いまだに被告はその資料が議会に提出されたと言い張っているのはどういうことか」、「被告の主張は全くの虚偽であることは明白である」などなど。そして最後に以下のように結んでおいた。

被告は今回もまた何らの新事実の提示もなく、原告の論述にほとんど反論することもなく、まるでそれを無視するかのように従前の主張を繰り返すのみである。もはや結審を延す理由は全くないと思われるので、裁判所におかれては速やかに「補正書 第1 請求の趣旨」通りの判決を下さるよう求める次第である。

公判が始まって、裁判長は弁護士に向かって「これは今までの主張を整理しただけで、何も新しいものはありませんね」と確認した。これは私の主張そのものだった。弁護士は無表情にただ「はい」と答えただけだった。どんな抵抗を試みるかと見守っていただけに、あっさり肩すかしを食らった思いだった。それではなぜこんな書面を出してきたのだ、と言ってやりたい気分だった。ともかくこれで決まった。では結審にします、判決言い渡しは10月16日13:10からです、原告からは上申書を受け取っているが、裁判所の都合でどうしようもない、とのことだった。上申書というのは10日ほど前に私が出したもので、以下のような内容だった。

屋久島町では次回町議会議員選挙が9月15日告示、同20日投票になっています。この裁判は選挙に多大の影響があります。現在の議会は、被告および被告知人である現町長を支持する議員が多数を占めています。その勢力を維持しようと、町長側は「この裁判は勝ちと弁護士が保証している」と言いふらしています。常識があればそんな保証などあるわけがないと判るはずですが、二十年以上も町長であり続けた人の言葉を信じる町民は多いようです。そうやって町長派の議員を多数当選させれば、後でもし敗訴になっても、もう当選しているからその議員たちは安泰であるし、彼らに守られて町長はさらなる追及から逃れられることになります。有権者が正しい判断をするためには選挙の前に真実を知る必要があり、そのために当事件の判決を速やかに出していただくことをお願いする次第です。

ともかくここまで来て、選挙に間に合わなかったのは残念だった。もちろん法律の世界は判らないから、却下になる可能性もないとは言えない。しかし双方の主張を客観的に読めば、こちらが本案で負けるところのないことは誰でも判るだろう。それこそ完膚無きまでに打ちのめしているのだ。それを町の人々に理解してもらえさえすれば良いのだ。逆にたとえ判決が間に合ったとしても、多くの住民が関心を示さず、今まで通りの議員が多選を重ねるだけに終る可能性も十分ある。田舎政治の仕組みはそれほど根強く強固なのだ。屋久島町の改革はそんなに甘いものではなく、たくさんの障害と長い道のりがこれからも続くだろう。この裁判はその第一歩であり、やっと糸口を掴むことができただけなのだ。

準備書面6は屋久島再生会議室にpdf形式で載せてあります。
posted by 夜泣石 at 11:34| 屋久島町の動き | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

ハマユウ

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子供の頃、家にハマユウの鉢植えがあった。小ぶりの鉢に抑えられて大きくなれず、それでも毎年清楚な、純白のリボンで作ったような花を咲かせていた。中学生になった頃か伊豆の浜辺で、野生のハマユウを初めて見た時は驚いた。花の印象とはかけ離れた、大きな葉で胸元ほどの高さもある、でんと存在感ある植物だった。そんな思い出の花が屋久島にもたくさんある。しかも南国らしくさらに巨大になっている。

ハマユウは日本人に愛されているのか、さまざまなものにその名が付けられている。ネットで検索したら花はあまり出てこないで、民宿、旅館、料亭、病院、列車、バス、各種団体などがずらりと並んだ。みんなこの花の可憐さに惹かれたのだろうが、しかしこのたくましさは知っているのだろうか。

海辺の厳しい環境では多くの植物は小さいか地を這っているが、これはしっかり立ち上がっている。台風の後でも葉をちぎられたり倒れたりすることはめったにない。何年かに一度の大嵐の後、根元を掘られてタコの足のようなとんでもない根が出てしまっていたことがあった。さらに掘られて巨大な株が転がっていたこともある。そうしてついに枯れた時には、太い根や茎は堂々とした喬木の残骸のようにも見えて無残だった。

ヒガンバナ科と聞いてなるほどと思った。確かに花の形は似ている。しかし感じがずいぶん違うのは、毒々しいほどの赤と清純な純白の違いのためか。また海岸に一面に咲く様はきれいだが、近寄ってよく見るとそうでもない。判ったのは花は夜に開いて、翌日の昼にはもう萎れかけていたのだった。夜飛ぶ大きなスズメガの仲間を呼んでいるのだそうだ。早朝に見に行くとみずみずしくてとてもきれいだ。しかもすばらしい香りもする。

花の後に大きな果実ができる。海に何ヶ月も浮かび、流れついた海岸で芽を出すのだそうだ。雨が降ると根を伸ばし、自分で地中にもぐっていくのだという。灼熱の岩場に転がっていて、そんな状態でも芽を出していた種があった。拾ってきて庭に埋めてみた。それらが数年で抱えきれないほどの大きな株になって、毎年たくさんの花を付ける。海岸でなくても、暖かければどこでも育つようだ。

漢字で浜木綿と書くが、木綿は「もめん」ではなく「ゆふ」なのだそうだ。コウゾなどの樹皮の繊維から作った布で、古代から神事などに用いられてきたという。それがこの花のようだというのでなく、根元に巻き重なった白い葉柄が似ているからだそうだ。しかし私は、この花が真っ白いもめんの布を裂いて作ったようだからという話にして欲しいと思う。またハマオモトの名があり、その方が正式らしい。葉の感じが園芸植物のオモトに似ているからだそうだ。しかし私は、誰かに似ているからといった名前はニセモノみたいで好きでない。せっかく独自のハマユウの名があるのだし、それは万葉集にも出てくるほど由緒のあるものなのだ。
posted by 夜泣石 at 06:52| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年07月05日

ノコギリクワガタ

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クワガタムシが夜の明かりに集まってくる季節になった。大小いろいろな種類が来るが、中でも目を引くのがノコギリクワガタだ。7cmは超える大きさで、しかも湾曲した猛牛の角のような、あるいは枝のある鹿の角のような大あごが立派だ。気も強く、捕まえようとすると大あごををぐっと広げてこちらに向けて戦闘態勢に入る。これに挟まれたら痛そうだ。ところが聞くところによれば、痛いには痛いが怪我をするほどではなく、昔の子供は指を挟ませて我慢比べをしたのだそうだ。一見おとなしそうなヒラタクワガタだと血を見るほどだという。

町中で育った私は、カブトムシならともかく、野生のクワガタなど、遊ぶどころかほとんど見たことがなかった。それが屋久島では当り前のように、多い日には何匹もが網戸に止まっている。これがあこがれていた田舎暮らしだったなと、いつの間にか忘れてしまっていた感動がよみがえって来るような気がしたりする。

クワガタはあまり飛翔力のある方ではないから、地域によってかなり変異があるとのことだ。中でもノコギリクワガタはその幅が大きく、屋久島産は大あごの形が良く人気なのだそうだ。本州と同じ種はここが南限で、これより南の離島ではみな亜種になってしまうそうだ。また同じ種の中でも変異が大きく、小さな個体は半分ほどの大きさで大あごも貧弱だ。平らでまっすぐな大あごの個体を見つけて、何の種類か判らずいろいろ調べて、やっとノコギリクワガタの短歯型と判った。数の上ではこれが一番多い。

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早いものは6月初めには出てくる。カブトムシよりだいぶ早いのは成虫越冬するからだった。去年の秋に羽化して、そのままじっと地中で半年以上も眠ったように過ごし、初夏になってやっと活動を開始するという不思議な習性なのだそうだ。ところでその前の蛹の時、この大あごはどうなっているか興味があった。カブトムシは角のある蛹だが、これも大あごを突き出しているのだろうか。ネットで調べてみたら頭をぐっとうつむかせて、大あごを胸や腹に付けて折りたたんでいるような姿だった。これを土中に見つけたら、たぶんクワガタの蛹とはなかなか思いつかないような、ちょっと奇妙でかわいらしい感じのものだった。
posted by 夜泣石 at 06:54| 生きもの | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

議員検定制度

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梅雨の合間の晴れのうれしさ

世界の経済は百年に一度の危機といわれていたが、最近はもう株価が上がってきている。まだまだ何が起こるか判らないが、峠は越えたのかも知れない。資本主義の終焉とさえ言われもしたが、どうもそうはならなかったようだ。それどころかこの経済体制の強固さを見せつけられたような気もする。

それは共産主義などとは違い、欲深い人間の本性に根ざした制度だからだと思う。自然なものは強いのだ。ただ人間の欲望には限りがないから、放って置くととんでもないことになってしまうことも実証された。今までもさまざまな規制はあったが、そんな程度では間に合わなかった。私は、すべての人がもうこれ以上稼いでは駄目という最高所得制限をすることが一番の歯止めだと思っている。また社会生活の中で賭博が禁止されているのと同様、経済金融上においても賭博に類するようなことはレバレッジなど片っ端から規制すべきだろう。

ところで経済の方は立ち直りの兆しを見せているが、政治においてはますます混迷が深まっている。日本の首相など、テレビで見るその顔はいつも薄気味悪い笑いを浮かべて、もう正気とは思われない。間近に迫った総選挙で政権交代は既定事実のようになっているが、それでこの混乱が収まるとは誰も期待していない。それでも日本などまだましな方で、もうどうしようもなくなったような国が世界中にあふれている。

なぜこんな状態が続くのだろう。それは今の政治の制度、いわゆる民主主義というものに根本的な欠陥があるからだと思う。そもそも民主主義は人間の本性に合っていないのだ。民主主義というものは、すでに葬り去られた共産主義もそうであったように、人間というものへの幻想に基づく壮大な虚構なのだ。

民主主義は人の理性を信じ、国民皆が教養を深め、国のあり方や具体的な方策について的確に判断するということを前提としている。しかし謙虚に顧みれば、ほとんどの人は決して理性的ではない。あるいは人は賢いかも知れないが、その能力はほとんど自分の利害の計算のために使われてしまっている。また人は群れる動物だし、付和雷同するのも本性なのだ。「民主主義は今までのところ、古今東西どこも衆愚政治であった」と言われるのも当然のことなのだ。

それでもいつか人は成熟し理性的になれるのだろうか。しかし近年の脳科学が明らかにしてきたことはそれを否定するものだった。人の心はほとんど無意識に働き、そして行動を決めてしまっているというのだ。意識は行動した後で、なぜそうしたかの言い訳や理由付けをしているに過ぎなかった。これはつまり選挙においては、我々は無意識のうちに誰に投票するか決めてしまい、各候補者の公約などは、それを正当化するために偏見を持って読んでいることになる。

では民主主義に替るものはあるだろうか。古代ギリシャでは賢人政治、哲人政治が理想とされたようだ。古代中国でも徳の高い天子の下で人々が幸せに暮らせた時代があったそうだし、日本にも名君の昔話はたくさんある。しかしどれも長続きしなかったことは、すべてが伝説になってしまったことからでも判る。「民主主義は最悪の制度だ。これまで試みられてきた他のいかなる制度よりもまし、というだけだ」とチャーチルは言ったそうだが、これはまさに真実だろう。我々はいつか替るべきものを見つけ出すまでは、民主主義にさまざまな修正を加えながら少しでも良く運用していくしかないようだ。

私は、そもそも平等に一票というのがおかしいと思っている。人は皆平等というのは幻想だ。あるいは権利としては平等であるべきかも知れないが、それは誰にも道は開かれているということであって、実際にそれを行使するに当っては、各人の努力や能力に応じて差があって当然だろう。内外の動きをよく理解し、さまざまな主張を虚心に聞きそして深く考える人と、知ろうと努力することも自ら考えることもせず、知り合いや頼まれた人に投票するのに何の疑問も持たない人と、なぜ同じ一票なのか。

具体的な修正案としては、有権者の資格試験というのが一番明確だろう。高位の資格を取るに従い一人十票とか、百票とかにしていけばよい。そもそも誰にでも自動的に与えられた一票では全然うれしくない。自分が勝ち取った資格なのだとなれば心構えも違ってくる。棄権も減るし、人々の政治に対する関心もずっと高まるだろう。

しかしこれを実行するにはさまざまな難問がある。格差の激しい社会では、弱者はそもそも勉強する余裕もないのでますます追い詰められるといった反論もあるだろう。もっともその議論は、突き詰めれば理性的な投票は望めないということで民主主義の否定そのものになるのだが。まあそういう議論はともかくとしても、物理的にも国民全員の試験というのは大変なことになる。

では次の策として選ばれる方の資格ならどうだろう。国、県、市町村の議員や首長といった仕事は、本来は大変な知識や能力が必要なはずで、誰にでもできるようないい加減なものではない。今のように誰でも立候補できるとなると、上述してきた通り有権者の多くに理性的な投票が望めない状況では、金や策略や利益集団のエゴなどで、本来ならその任に堪えられない人物が当選するのを防ぐ手立てがない。まず議員検定といった制度を作り、その資格保持者でないと立候補できなくしたらどうだろうか。そもそも司法も行政も公職に就くには試験があり資格が求められる。立法府にも試験や資格が必要であって当然と思う。

資格の判定には今騒がれている世襲禁止も入れる。世襲は単に各候補者間の自由で平等な競争を阻害するというだけではない。現行の体制に寄りかかって良い思いをしている人たちにとって、その特権の継続を意味するのだ。これでは公正な選挙などとても望めない。

なによりまず検定試験を実施する。立候補者が対象なら、数はそれほどでもないから物理的にも実施可能だろう。そして選良にふさわしい見識や思考力、表現力などを総合的に試験する。といってもそうした問題作りは難しいので、手始めはごく緩やかで良いだろう。優秀な人を選ぼうとするのでなく、あまりにおかしな人を排除できさえすれば良いとするのだ。誰もがもっともと思う程度の、政治や経済の常識、日本や世界の地理や歴史の一般教養、そして国語力くらいで十分だろう。それでもおそらく今の首相を始め与野党の少なからぬ代議士が落第するだろう。

私は移住してきた町の議会を何度か傍聴して唖然としてしまった。何も言わないで、ただ町長が出してきた案件にはすべて賛成する議員が多い。「四年間、黙って座って一千万円」という戯れ句を聞いて、なるほどと思った。そしてそういうことはこの離島に限らず、日本の地方議会というのはだいたいそんなものだと知ってさらに驚いた。足元がこんな調子なのだから、それを積み上げた国の政治が悲惨なのももっともだと思う。この変革には理想論を振りかざして人々を啓蒙しようとしても間に合う訳がない。もし検定試験があったら、これらの議員たちは試験を受ける気もないだろうから、あっという間に一掃できる。このような今までの民主主義の常識をくつがえすような制度を強制しなければ、日本の国の抜本的な改革は為し得ないと思う。
posted by 夜泣石 at 10:08| 世の中のこと | 更新情報をチェックする
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