2009年03月28日

ノアサガオ

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道路際の空き地が一面、鮮やかな青に染まっていた。ノアサガオの大群落だった。絡まるところのない平らな地面で長々と蔓を伸ばし、それらが縦横に重なりあっている。そしてそれぞれの葉の付け根に数個づつの花を付けるから、見渡す限りが花に埋まってしまう。この島では一年中咲いているが、今の季節、一番数が多く色も鮮やかだ。

アサガオにはたくさんの園芸種があるが、青色の鮮やかさではこの野生種は決して負けていない。大きさでも10cmを超えてそんなに引けを取らない。しかし庭に植えたいと思わないのは、この草のあまりのたくましさのためだろうか。花はそっくりでも全体の印象は、俳句などにもよく詠まれるアサガオの可憐な、あるいはすがすがしい感じとは大違いだ。けれどもそんな日本人に愛されているアサガオはもともと薬として外国から来たものだそうだが、こちらはれっきとした在来種だ。紀伊半島あたりから南の海岸に、ずっと熱帯地方にまで分布しているとのことだ。

園芸種のアサガオの葉は細かな毛に一面覆われてやわらかく優しい感じで、形も3つに分かれた風情のあるものだ。ノアサガオの方は海浜植物によくあるようにてかてかとして分厚く、形も先だけが尖った丸いものだ。ハート型といえば聞こえはよいが、丸々と存在感があって、ふてぶてしいくらいの感じがする。

午後を過ぎると花はだんだん赤みを増してくる。そして夕方萎れてしまう頃には、すっかり赤紫になっている。面白いことに寒くなってくると咲き始めから赤みが強まる。ノアサガオは冬でも青々としているが花の数はぐっと減る。そのかわり厳しさに耐えるとかえって美しくなるとでもいうのか、赤紫のとてもきれいな色になる。そんないとおしいような花が、真冬の寒風の中で一日中咲いている。
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posted by 夜泣石 at 06:59| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年03月24日

流れ者

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目の前に現れた流れ者のサシバ

屋久島町長告訴は移住者が自主的に起こしたものだと思っている人が少なからずいるようだ。無知蒙昧な、あるいは濃密な人間関係や利害関係でがんじがらめになっている地元の人たちの有様に業を煮やして、自由で広い視野を持った都会からの移住者が立ち上がったというものだ。私は何度もそれは違うと言ったり書いたりしてきたが、しかし人はどうも麗しい誤解をしたがるもののようだ。

もし、地元の人たちが口を揃えて「たとえ不正があろうと、誰かが私腹を肥やしていようと、これまでこうしてみんな仲良くやってきたのだからそれで良いではないか。よそ者などにとやかく言われる筋合いはない!」と言うのだったら、私は何もしなかった。いや実際、地元の感覚というのはたいていそんなものだろうと思っていたから、私も移住して数年は、おかしなことを見聞きしても黙っていたし係わり合いを避けてきた。

しかし次第に判ってきたのだが、地元に少数だが闘っている人たちがいたのだった。世の中の常であるように権力に楯突く悲哀を味わいながら、かえって闘志を燃やしていた。そしてそれ以外にも案外多くの人たちが、さまざまな不正をそれなりに知っていて、陰では批判や反対を口にしてもいたのだった。

私はそうした人たちの話を聞いて、なるほどと思わざるを得なかった。それに安房の崖地のように誰が見てもおかしいものがあちこちにあった。我慢のできない気持ちになって次第に発言するようになった。だから闘っている人から協力を求められた時にはすぐに応じた。

といっても表に出るつもりは全くなかった。せいぜい助太刀をしてやるかといった軽い気持ちだった。しかし実際には、論戦のような場で切った張ったをするのは、諸国で修行してきた流れ者の方が得意だから、つい表に押し出されてしまった。だからあたかも華々しく活躍しているように見えるが、しかしそれを支えて本当に働いているのは、以前から闘い続けてきた地元の人たちであり、彼らが中心であることに変りはない。

私が孤軍奮闘していたり、それを地元の人みんなが冷ややかに見ているというのは全くの誤解だ。主役はあくまで、少数ではあっても正義感に燃えた先進的な地元の人たちなのだ。そして彼らの主張や行動は、もはやかなりの住民に理解され、心情的な支援の輪も広がっているように見える。世の中によくあることだが、非国民が一夜明けたら英雄になっていたということが、早晩ここでも起こるのではないかと期待している。
posted by 夜泣石 at 10:40| 屋久島町の動き | 更新情報をチェックする

2009年03月21日

自分勝手の言い分

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私は何でも自分で考え判断して、それに基づいて行動しようとする。すべては自己責任なのだし、自分の身は自分で守るしかないと思うのだが、そういうことを世間では自分勝手と言うらしい。

健康診断の通知が今年も来た。私は行ったことがない。そこまでやってくれなくていいと思っているし、甘えとお節介の日本人の体質が、いびつな医療体制を作ってしまったと考えている。私は少々具合が悪いくらいではまず医者には行かないし薬も買わない。それでもさすがにガタが来るようになったのか、昨年はどうしようもなく病院通いをしてしまったが、大量に出される薬など自分の判断で飲む量を変えたり飲まなかったりした。

道を歩いていて、信号など守らない。周りを見て、安全を確認したらさっさと渡る。広々と見通しの良いところで車など何も見えないのに、なぜ規則だからと貴重な時間を無駄にしなければならないのか。もちろん自分が運転している時は、車には死角があるし、万一の時は人に迷惑をかけるから絶対に守るが、歩行者なら自己責任で十分だと思っている。

集落の月一回の環境美化作業にも出ていない。もともと朝6時というのは私にとっては最も知的生産の盛んな時間帯だから潰されたくない気持ちが強い。もし昼間にやってくれたら、今受け持ちの場所は神社だそうで、そこは初詣くらいはする所だから参加するだろう。もし行くこともない場所だったら出る気はしない。

私は公徳心に欠けているのか。しかし我が家の前の道路をきれいにするなどは当然のことだと思っている。草刈りをしたり、嵐の後の大量の落ち葉などすぐ掃除する。また、この道路は主要部分しか舗装されていないため、端の方は大雨によって溝が掘れていた。少し離れたT字路の角には大きな段差もできていた。私は庭から出てきた石をせっせと運んで埋めていった。最後に我が家を建て増しした時、大工さんが余ったセメントで固めて仕上げをした。それでここを通る人たちは助かったはずだし、道路補修にかかる公共のお金をいくらか節約できたことと思う。

身近なことで自分でできることなら、つべこべ言わずにさっさとやればよいのだ。みんながそうすれば周辺はいつもきれいに保てる。早くから手を打てばだいたいは簡単に片付くし、お金がかかるほど壊れたりする前に直すこともできる。しかし目の届かないところまで個人に負担を強いるべきではないと思う。必要なことは専門業者と契約してやってもらう。公共のお金は、そういうことのためにあるのだろう。

月一回の朝作業の時刻は、秋から冬にかけては夜明け前で真っ暗だ。しかも南の島と言ってもかじかむ寒さだ。土地に不案内なものにとっては身の危険すら感じてしまう。よくもこんな時に作業などする気になれるものだと感心する。また年一回の島中での集落総出の農道切払い作業は、炎天下で半日以上かけて行われる。都会出のひ弱な移住者にとってはとんでもない苦行になる。これほどのことは本来住民に強制してよいものではない。いくら補償するからと言われても、事故とか熱射病で倒れたりしたくない。

我が集落では、あるとき突然、みかん畑の猿防止の柵の補修作業は区民の義務と決めたから全員出席せよとの放送があった。これが現代の日本のことかと耳を疑った。畑を持っている人たちが共同で作業するのは当然だろう。人手が足りないからボランティア募集というのなら判る。しかし他人の生業を手伝うのが義務とはいったいどういうことだろう。もし多数決で決めたというなら、ここでは全員が農家の下働きをしなければならなくなる。

公と私の境で曖昧な部分があったのは歴史的には当然だろう。明文化されてはいないが暗黙の義務というのは、協力し合わなければ生きていけなかった時代には必要だっただろう。しかし今や人々はそれなりに豊かになり多様化して、皆が同じ仕事をしたり同じような暮らしをしなくなった時代だ。そういう曖昧な部分は極力減らしていかなければならないはずだ。それなのにここではますますそれを増やそうとしているように見える。むりやりみんなを集めてあれこれ行事など行うことを、村興しだ、集落作りだと思い込んでいる人がいるようだ。集落の一人一人は陰ではやりたくないなど言っていたりするが、自分勝手だと思われるのを恐れてか、表立って不満を表明する人は少ない。

表面的には活気のあるように見えても、強制されていやいやながらやっていたらそれで集落が発展するはずがない。広く世の中を見れば、住み心地の良い地域というのは、みんなが自発的に行事を行っているようだ。たとえば神社や公園などの清掃は、体力作りや人付き合いのため、近くの人たちがボランティアで会を作って定期的にやっている。そういうことに用具の費用など区が補助して支援するのは良いことと思う。

私にもやりたいことがある。この集落の中には家々を守るかのように小高い山がある。都会だったら絶対放って置かないで公園になっているはずだが、今はうっそうと茂って登ることができない。もしあそこに山頂までの遊歩道を造ったら毎日でも散歩したくなるだろう。このあたりにはあまり良い散歩道がないし、あの山はとても景色が良さそうだから、集落のかなりの人が集まってくることだろう。適度な運動になるし、付き合いの場にもなる。山頂をちょっとした広場にしたら、夜には360°近い満天の星空が眺められるだろうから、最近はやりの里のエコツアーの場としても最適だと思う。もし許可が下りたら、道造りをみんなでやりたいものだと思っている。義務ではなくやりたいことをして、それがみんなのためにもなる。そういう活動こそが本当の村づくりになるのだと思う。
posted by 夜泣石 at 07:05| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2009年03月14日

ヤマタニシ

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雨上がりの庭にカタツムリが這っていた。2cmくらいで、きれいに渦を巻いた殻は高さがあってなかなかかっこいい。しかしなんだかいつもと感じが違う。よく見たら何とふたを持っている。それに触覚の先が槍のように尖っている。普通ならここは丸くなって目があるはずなのだ。よく見ると触覚の付け根に小さくぽつんと黒い目がある。この形は水の中に棲む巻き貝そのものだ。

調べてみたらヤマタニシというものだった。名前と見かけの通りタニシとは近縁で、いわゆるカタツムリの類とはかけ離れているとのことだ。カタツムリは雌雄同体だがこちらは異体で、また肺呼吸をしているわけではないそうだ。それほど珍しい種類でなく、関東地方南部からずっと屋久島まで分布しているという。そしてここより南に行くと、近縁のオキナワヤマタニシになるのだそうだ。

そうすると今までも、どこかで何度も見ていておかしくないが、気がついたことはなかった。いつもただのカタツムリと思ってしまっていたのだろう。また落ち葉とか、コケとかキノコとか食べているようで、植物に這い上って葉を囓ったりしないので人目に付きにくいのかもしれない。今もコケの小さな芽生えを食べているようだ。山林の落ち葉の下などでひっそり暮らしているそうだが、このところの悪天候は彼らにとってはかえって天国みたいなものだから、うかれて人前に出てきてしまったのだろう。

屋久島はわりと最近まで本土と繋がっていたから多くの生きものが渡ってきている。一方、島嶼としての種分化も起っている。そして雨が多く深い森林が保存されてきたから、このような陸に棲む貝類はかなり多いようだ。大きな図鑑を開くと、分布が屋久島までとか、このあたりだけとかの記述があちこち目に付く。コケとかシダでは有名だが、陸貝においても隠れた宝庫なのかもしれない。
posted by 夜泣石 at 06:43| 生きもの | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

ピタンガ

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ピタンガが咲き出した。わずかに桃色の入った白い花びらがきれいだ。1.5cmほどの小ぶりな花だが、長いたくさんの雄しべが華やかな感じに仕立てている。そんな花が、こんもりとした茂み全体に無数に咲いて、離れて眺めてもなかなか見応えがする。

ブラジル原産のフトモモ科の常緑低木で、庭に植えてちょうど2年になる。小さな苗だったが、またたく間に縦も横も2mを超えるほどの茂みになった。フトモモ科の熱帯果樹というのはいろいろあるが、どれもこの島の気候にはよく合うようだ。グァバもフェイジョアも放っておいてどんどん大きくなる。しかし果物としてはなかなかクセのあるものが多い。

5月に入ると、ピタンガには2〜3cmほどの赤いトマトのような、あるいは小さなカボチャのような形の実がなる。本などには、多汁で適度な甘みと酸味があり、さっぱりした風味で、イチゴのような芳香があるなどと書かれている。そんな言葉に惑わされて買い求めたものだったが、実ができてみるとかなり幻滅した。甘みは少なく、ちょっとヤニ臭く、少し辛みがあり、なんだかピーマンを生で食べているような感じだった。しかしブラジルでは人気果樹の1つで、イチゴやチェリーのように食べられ、またジャムやゼリーなどにされているという。我が家のものがあまりおいしくないのは品種が悪いのか、気候に問題があるからかもしれない。それともまるでお菓子か何かのように品種改良された、多くの日本の果物に慣れてしまっているからかもしれない。

果実の中には大きめの種が一つ入っていて、それを蒔くと簡単に芽が出る。花も実も観賞用にはなかなか良いし、つやつやした深紅の新芽もすばらしい。なんでも食べてしまうヒヨドリにまだ狙われていないし、今の時期大発生している毛虫もより付かない。これで垣根を作ったらと、我が家の道路際に何本か植えてみた。数年後を楽しみにしている。

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posted by 夜泣石 at 06:05| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年03月07日

黙っている人々

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雨上がり朝、開きかけのサヤエンドウの花

町長による崖地の購入も、問題だらけのゴミ処理場も、百害あって一利なしの日食の入島制限も、この島では長期的な視野も総合的な計画もなく、それぞれの人がそれぞれの場で勝手なことをやっている。それを多くの住民が見て見ぬふりをして、黙って好きなようにやらせている。この島では民主主義など麻痺してしまったかのようだ。

黙っていることは現状肯定になる。黙っている人は今の為政者を支持していることになり、現体制の擁護者になってしまう。だから世界の独裁政権は、いかに知らしめないか、人々を黙らせるかに腐心し、言論を統制する。この島では人々が自らを統制し、目も耳も口もふさいでいる。

民主主義というのは、一人一人の日ごろの努力がなければ維持できない。実際それを怠ったために、この国の政治がここまで破滅してしまったのだ。一党独裁、世襲議員、世襲大臣ばかり。そうしてそれらがもたらした強大な官僚支配の構図。これらは多くの無関心、無思慮で人任せな国民自身が作ってきたのだ。

私も正直、政治や今の世の中にはうんざりしていた。南の島に移住したのも、そうした喧噪から離れたいこともあった。狭い離島なら、原始共産制とまではいかなくとも、素朴で貧しい風土のもとで、のどかで公正な行政が行われているものと思っていた。

しかし来てみて、全く違うことに気付いた。ここでは選挙で買収など当り前で、利権争いに明け暮れ政治を食い物にする連中がのさばっていた。半世紀以上も前の日本の田舎政治の生きている化石のようなものだった。あきれて、止むに止まれず、あちこちで聞いたり自分の意見を言うようにした。もっともそのあげく訴訟などに巻き込まれたのは本意ではない。自分の迂闊さを悔やんだものだが、そうなったのも自らの責任だから、開き直って最大限の努力をするようにしている。

屋久島を賞賛する本や移住を勧める記事など多いが、どれもこういうことには触れられていない。物書きのプロたちが能天気なことばかり書いている。嘘はないとしても、肝心なことを書かないことで人々を欺いているのだ。またこの島にブログは多い。しかしそこでも、こうした問題に触れているのはごくわずかだ。

100あるブログのうちで5つしか意見を書かなければ、95%の人は何も問題はないと言っているのと同じなのだ。問題を指摘したり訴訟を起こしている連中など、一部の跳ねっ返りだと、あるいは政治抗争での少数派の陰謀だと、世間に向かって証言しているようなものだ。意見を表明できる場で黙っているのは、「崖地購入は正当だった」「入島制限には問題はない」と言っているのと同じことになってしまう。そういうことに多くの人たちは気付いているのだろうか。

話は急に変わる。国政の場で民主党が揺れている。私はこのニュースを聞いて、民主党にとって最高の好機だと思った。国民はもうすっかり旧態依然の政治に倦んでいる。米国と同様、若いリーダーを待ち望んでいる。しかし古い体質に固まった各政党が自ら老人支配から抜け出すのは難しい。そんな時、外からの衝撃がその道を可能にしたのだ。若い党首を立て、全員が危機意識で団結して闘ったら、旧弊の自民党支配にうんざりしている国民を引きつけることができる。小沢一郎は、罪があったかどうかにかかわらず、このままではもう前途はない。しかし「検察と闘うため党務に専念することができない」とでも言って潔く辞めれば、黒幕として影響力を保持し続けることができるだろう。彼ほどの策士がこんなことに気付いていないはずはないと思うが、我が身のことになると冷静な判断は難しいのだろうか。
posted by 夜泣石 at 09:32| 屋久島町の動き | 更新情報をチェックする

2009年03月03日

ローズマリー

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屋久島はこのところずっと、菜種梅雨のような日々が続いている。雨上がりの朝、しっとりと雫に濡れるローズマリーがきれいだった。薄紫の花びらに小さな水玉がびっしり並び、ふと伝説の工芸家の作ったガラス細工を見るような思いがした。

この花の形は、いかにも虫に来てくれといわんばかりだ。下側の花びらは空飛ぶ虫が着陸するのにちょうど良いし、そのまま花の奥の蜜の在りかへ導かれる。その時背中の当る位置に白い葯が吊されていて花粉が付くようになっている。ぴんと上に伸びた雌しべは、葯が茶色に枯れる頃、今度は花粉を虫から受け取るために、ぐるっと曲がって葯と同じ位置に来る。

この低木は地中海沿岸から来たという。どんなところに生えていたか知らないが、びっくりするほど強健だ。秋から春にかけて咲くから、涼しく乾燥した気候が好きなのだろう。しかし屋久島の湿度100%の日々にも平気だし、焼け付くような日照りが続いてもびくともしない。一枝折り取って来て土に挿しておいただけなのに、数年で抱えきれないほどの茂みになった。我が家には立ち上がるものと地面を覆っていくものの2種類がある。色や香りに微妙な違いがあって、どちらかというと這うものの方がおとなしめでひいきにしている。

ローズマリーという名の持つ、清純な女性のような感じが好まれるのか、店や商品などいろいろなところに使われている。もとはラテン語で「海のしずく」を意味するのだそうだ。確かに露にまみれたこの姿はその言葉にぴったりだ。そして一つ一つは小さな花が、細い枝に沿ってびっしり咲いている様子もよく合っている。

しかし何より、この木全体から漂ってくる香りがすばらしい。甘いとかさわやかなどというのと違って、人を惑わすような魔力的な感じがする。そして実際、ずいぶん薬効があるのだそうだ。庭仕事が終った夕方、いつもこの茂みの前を通る。深呼吸して、手で触って香りをかぐ。一瞬、疲れが取れていく思いがする。神経を興奮もさせるし休ませもするようで、全身に一日の終った休息感が広がっていく。
posted by 夜泣石 at 06:38| 花草木 | 更新情報をチェックする
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