2009年01月31日

チランジア

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真っ赤な葉に紫の花。植物では珍しいような不思議な色だ。珊瑚礁の間にひそむ動物か何かを思い出す。これはチランジア、一般にはエアープランツと呼ばれて販売されている一群の植物で、その中のイオナンタという名前のものであるらしい。大きめの貝殻に接着剤で貼り付けて窓辺に飾っておいたら、秋になって葉の先の方がしだいに赤くなってきた。どうしたのかと思っていたら、そのうち真ん中に紫色のものが見えた。それがどんどん伸びてきて、真冬のある日、雄しべ雌しべが飛び出してきた。少し遅れてもう一本、また一本と次々に咲いた。この色と形はパイナップルとよく似ている。なるほど同じ科だなとうなづける。

東京にいた頃、近くの花屋に寄ったら何種類も安い値段で無造作に置いてあった。姿形の面白いものをいくつか買って部屋に飾っておいた。屋久島に来て、ここでは野生で育つかもしれないと庭の大岩に貼り付けてみた。あるものはどんどん育って花を付ける。しかし虫に食われてしまうもの、なぜか枯れていくものもあった。同じ仲間の植物といっても、好きな環境はずいぶん違うようだ。

枯れかけたものを再び部屋の中に取り込む。空気中の水分を吸うから水やりはいらないように言われているが、もともとは湿度の高いところに生えて、びっしり付いた夜露を吸っているらしい。そこで毎日葉をびっしょりと濡らしてやった。見る間に元気になって、新しい葉がたくさん出てきた。そうして数年も経ったら、こんなにきれいな花を咲かせた。

原産地の熱帯アメリカでは、岩石や樹木に着生しているという。電線などに絡まって育っていたりもするそうだ。いったい種はどうやって運ばれるのだろう。鳥が食べて糞をしてまき散らすのか。またあちこちに着生するために、ヤドリギのように粘着質であるのだろうか。この後結実したらいろいろ面白いことが試せそうだ。しっかり受粉の手伝いをしておいた。
posted by 夜泣石 at 06:19| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年01月28日

最高所得制限

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冬の虹。冷たい雨の置き土産

オバマ新大統領の就任演説を読んでみた。はれの日にふさわしいようなお祭り気分や浮ついたところなどかけらもなく、重苦しいとも言える内容だった。それは所々で神を根拠にしている点を除けば、世界の知性と良心の塊のようなものだと思った。これだけまっとうなことを堂々と言える米国の政治風土がうらやましくもあった。

ところでかつてのケネディの名演説もそうだったが、オバマも国民の責務を問うている。しかし今の、特に最大の問題である経済の混乱と疲弊は、地道にこつこつ働いてきた大多数の国民に責任があるのではない。オバマ自身も言うように「一部の者の強欲と無責任の結果」なのだ。一般国民に対処を求めるのは酷だろう。

経済対策として具体的に何ができるのか。いろいろ並べてはいるが、残念ながら特効薬はなさそうだ。そもそもこうなったのは資本主義の限界、あるいは終焉であるとすら言われているくらいなのだから。ただ私は、資本を集めて生産し販売し利益を得るといった基本に問題があったわけではないと思う。その上に積み重なった仕組みにより、お金がただお金を生み出すことだけに使われ、そうしたお金に狂奔することの害毒が全体に蔓延していっただけではないだろうか。

その大元の「一部の者の強欲と無責任」を今後も放置しておいてよいのだろうか。マネーゲームなどにうつつを抜かしていた彼らは信じられないような収入を得てきている。その影響か地道であるはずの製造業でも、一部の経営者などとんでもない高給を得ていて、しかも会社を潰しかけている。彼らの働きからするととても見合った額とはいえない。むしろ社会に対する貢献からするとマイナスと言っていいくらいなのだ。

ところで世の中には最低賃金制があり、また生活保護の制度がある。どこまで守られているかはともかく、人として所得の下限が定められているのだ。それならば今度は逆に人としての最高限度も定めてもいいのではないか。たとえば年収一億円を限度とする。それ以上は誰も受け取ることはできない。まともな人間ならその十分の一でも使い切れないくらいだ。それ以上のお金が欲しいと思うようだったら、自分がまともでなくなっていると思うべきだろう。もちろん欲望は人生の原動力であり、社会の活力の源であることは確かだ。しかし金儲けだけが欲望のすべてではない。世の中にはほかにやることはいくらでもあるはずだ。

金持ちは慈善事業などに熱心だと擁護する声もあるだろう。しかしそれならば最初からそんなにもらわず、その分人々にお金が行き渡るようにすればよいはずだ。慈善事業など必要としない社会の方が理想なのだから。プロのスポーツ選手とか俳優や芸能人などにもとんでもない金持ちがいる。もちろん彼らには才能があり、それなりの努力もしたのだろう。それにしてもこれだけの差が、同じ人間の間にあるとは思えない。運不運なら宝くじのように限度があっても良いはずだ。そもそも才能のあるなしというのも運のようなものなのだ。才能は才能として、金に関係なく無限に磨けばよいだろう。

金は簡単に国境を越えるから、この制度は一国だけではだめで各国が協調する必要がある。またあくどいことをするのは個人でなく企業だと言われるかもしれない。しかし個人の欲望が制限されたら、彼らの動かす企業が、今までのように際限なくどん欲になるだろうか。もちろんやってみなければ判らないが、今よりは良識ある行動をするものと期待してよいのではないか。また企業が強欲な個人の隠れ蓑にされることもあるだろう。しかし企業というものは公的な存在だから、そんなにいい加減なことは許されない。情報を開示させ社会的監視や統制も可能になる。そもそも昔のようなあくどい独占資本家が企業を牛耳る時代ではない。多くの場合大株主は機関投資家であり、その背後にあるのは多数の普通の人たちのお金を集めた投資信託や年金などだ。彼らは今回の危機を教訓にして、ますます長期の安定を求めるようになるだろう。

もとより人類は長い間食うや食わずで暮らしてきた。なんとか協力しあって生き延びてきたから、群れの中は平等であり、食料の共有と分配が基本だった。農耕が始まり、余剰の冨ができて初めて不平等が起こり、そして特権階級が生じたのだ。そして貨幣経済の発達がそれに拍車をかけた。我々は、たとえば食料とか生活必需品が給料として支払われるなら、必要以上にたくさん欲しいとは思わないだろう。しかし金となると、その使い道など思い当たらなくとも際限なく欲張りになってしまう。人類はまだ、余剰の冨を抱えて幸せになる方法など知らないのだ。その知恵を獲得するよう進化するにはあまりにも時間がなさ過ぎた。いつの日かひとりひとりが自覚して自らを律することができるようになるまで、外側から欲望にたがをはめておくしかないのだ。
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2009年01月24日

ジョウビタキ

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鳥は恐竜の直系の子孫、言い換えれば恐竜が形を変えて今に生き残ったものだそうだ。こんな愛くるしい生きものがと思うが、確かによく見ると怖いと思うところがある。足は鱗に覆われて蛇みたいだし、それにたいていの鳥は目つきが鋭い。獰猛な鷲鷹のたぐいが強面であるのは当然としても、身近な小鳥たちでも思いのほかきつい顔をしている。そんな中で、ジョウビタキの雌は例外的にびっくりするほど目つきがかわいらしい。真っ黒のまん丸な目でじっと見つめられたりすると、少年の日のはかない恋心がよみがえってくるような気がしたりする。

雄の方もそれなりにかわいいが、それでもなかなか精悍な感じがする。それは黒々とした顔や、あるいは輝くような銀髪のせいでもあるだろう。お腹は全体が鮮やかなオレンジ色で、地味な雌と違ってなかなか派手な配色だ。それでもこれらが同じ鳥と判るのは、両方とも翼に白い紋がくっきりとあることだ。またしばしば尻尾を小刻みにふるわせるのも共通している。それはとても愛くるしい動作で、どういう意味があるのか、ともかくほかの鳥では見たことがない。

雀よりも一回りほど小さいが、ぐっと近付くことができるので写真に撮りやすい。こんなに逃げない鳥も珍しく、ちょこちょこ動き回ってもだいたい同じ場所にいる。どこかに飛んで行っても、待っているとまた戻ってくる。そして次の日に行くとまた同じところにいる。

東京でも冬の住宅地で時々目にした。屋久島では秋口にたくさん見かける。ヒッヒッと高くよく通る声、続けてカッカッと低く何かを打ち付けるような音があちこちから聞こえてくる。不思議なのはこんなに違った音がほとんど間を置かずに連続して出ることだ。我々だったらこんなに声を変えるには一呼吸置く必要があると思うのだが。ともかくこの特有の鳴き声が庭に響くと、ああ今年も冬鳥の季節になったなと感じる。しかしそのうちもっと寒くなるとそれほど聞こえなくなる。あまり鳴かなくなるだけでなく、多くがもっと南に沖縄の方まで渡っていってしまうようだ。暖かくなる頃、再び戻る途中に立ち寄るので、一時また増える。それからどんどん北へ渡っていき、こんな小さな鳥なのに、はるかバイカル湖あたりにまで行き着くのだそうだ。
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2009年01月21日

故障続きのゴミ処理施設

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暗雲を透かしてかなたに光は届く

屋久島では以前よりゴミ処理施設が議会などで問題になっていたが、それに呼応して有志の面々が施設の見学に行ったそうだ。ところがその報告(#1#2)では、何も問題はないということだった。しかしそれはおかしい。私は議会を傍聴して、何人もの議員の追求に町長も役人も困り果てているのを見ている。関連する問題は山ほどあるが、何よりまず施設がトラブル続きでまともに稼働していないはずなのだ。

そこでゴミ処理の責任部署である環境政策課が、屋久島町議会の議員に提出した資料を見せてもらった。まず補修工事工程表があった。それによると昨年10月は4日から21日までの18日間、12月は6日から17日までの13日間、工事のため運転停止している。資料はなかったが8月も3週間停止をしたそうだ。しかもこれらは前もって計画した停止であり、突発事故や予期せぬ不調による緊急停止など入っていない。資料には3年前の稼働開始から今までに生じた不具合は200カ所以上になると書かれてあった。稼働日数からすれば、たぶん週に2回くらい起きていることなるだろう。するとこの半年をとっても、もしかしたらまともに稼働したのは本来の時間の半分にもならなかったかもしれない。よくもこれで全く問題ないなどと言えたものだ。

資料によると8月と10月の停止はヘッドダクトの損傷のためで、新しいものに交換したのだそうだ。原因は排ガス中の塩素分による腐食だそうだ。そもそも業者選定で今の業者が選ばれたのは脱塩技術があるという理由だったそうだが、これはいったいどうしたことか。そしてこの塩素による腐食は、今後配管だけでなく計測機器やコンプレッサーなど、どこまで影響が及ぶか予測が付かないのだそうだ。

こうした事実が書面になって提出されているというのに、見学に来た町民に環境政策課長が「全く問題ない」と説明するのはどういうことか。課長の説明では運転停止の理由は「安全柵を設けたりの作業環境の整備」だったのだそうだ。そんなことなら稼働日外の休日にやればよいし、そもそも何週間もかかるわけがない。事実を隠蔽する、その場だけの言い逃れで済まそうとする、町民に対するこういう不誠実な態度は屋久島町役場の体質なのだろうか。首長は断固たる態度で、こういう役人を罷免しなければならない。もし擁護でもしたら首長も同罪になる。またこの課長は「議員は勉強不足」とはっきり言い切っている。たとえそれが事実だったとしても、公の場でそんなことを言うのは公僕として許されることではない。議会で喚問して徹底的に追求するべきだろう。

ところでこのゴミ処理施設の問題は、こんな一課長の範囲で済むほど小さくはない。そもそもこれだけトラブルを起こすのは、実績のない施設を実績のない業者に発注したことによる。それはひとえに決めた人たちが無能だったためか。もしそうなら、決定した責任者たちにそれだけの処分がなされる必要がある。議員も何人も関わっていたようだが、その名を公表して、二度とそんな無能な議員が選ばれることのないよう島中に周知させなければならない。

しかしもしそんな素朴なことでなく、何か裏で金が動いた結果だとしたらただでは済まない。まず議会で委員会を作って徹底的に追求するべきだろう。そして司法の手に委ねなければならない。

新生屋久島町にとって、こうした過去の精算は避けて通れないことと思う。しかしともかく、もうできてしまった施設と屋久島町は心中しなければならないとしたら、今すぐに手を打たなければならないことがある。まずこの3月に迫った保証期間を延長させなければならない。重大な欠陥が出たばかりなのだから、その補修が終わってから半年とか一年の延長は常識だろう。

次に今後の補修の責任を明確化しなければならない。「炉の補修などのリコール的なものはメーカー責任」と役場は言っている。しかし将来、実際にそれが起きてみれば、メーカーは不可抗力であったとか予想を超えた使い方をしたとか、だいたい言い逃れをするものだ。そして役人も自分の懐が痛むわけではないし、そもそも面倒くさいから業者の言いなりになってしまうものだ。対策としては、早急に専門家を招集して今後起こるかもしれないトラブルを徹底的に洗い出し、可能な限り詳細に列挙する。そしてその項目ごとにメーカーの責任かどうかを明記した資料を作り、業者と取り交わしておくことだろう。それと同時に、たとえ優秀でなくともよいから、正義感あふれる人材を役場の担当部署に配置しておくことだ。知恵は外部からいくらでも出してもらえるが、心は借りることができないのだから。

ゴミ処理に関しては未だ先の見えない問題も多い。もともと有効利用するはずだった排出される炭化物の行き先が決まっていない。利用どころか逆に費用がかかってしまっている。ランニングコストの妥当性も不明確だ。また過去の大量にたまった野ざらしのゴミをどう処理するかも全く手つかずだ。ゴミ処理の問題は、今衆目を集めている屋久島町長提訴よりも金額的に桁違いで、連座する人たちの数もはるかに多い。これが島の将来を左右する大問題だということを島民すべてが認識しなければならない。
posted by 夜泣石 at 06:58| 屋久島町の動き | 更新情報をチェックする

2009年01月17日

クロガネモチ

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冬の屋久島の里には、真っ赤な実を付けた木々があちこちに見られる。そんな中でひときわ見事なのがクロガネモチだ。白いきれいな幹がすっくと立ち上がって、所々から形よく枝を伸ばす。その先にまん丸の小さな赤い実を、これでもかと言わんばかりに無数に付けている。

古い集落近くの空き地に大木が並んでいるのは自然に生えたのでなく、きっと植えられたものだろう。姿形がよいから本土でも昔は庭に植えたりしたそうだ。しかしこんな大木の似合う庭など、今時望むべくもない。近頃は街路樹として時々植えられているくらいだ。屋久島でも一部で街路樹に使われている。赤い実は堅くきっとおいしくないのだろう、あまり鳥たちは食べないようだ。おかげで年が明けてもずっと枝先をきれいに飾り付けている。

この木の花は小さいし高いところに咲くからまず目にすることはなかった。ある初夏の日、たまたま目の高さにあったのを見つけて驚いた。この大木にこんなかわいい花が咲くとは思いもよらなかった。真ん中にある二段重ねの饅頭のようなものが雌しべのようだ。といっても子房の上に直接柱頭がくっついているので、普通の花のような長く伸びた雌しべではない。その周りでこびとが並んでいるようなものは雄しべだろう。雌雄異株で、雌花では雄しべは退化していて花粉は出ないそうだ。しかしなぜか形や大きさはしっかりしている。ともかく花びらも含めて、すべてが丸っこく色も淡く、絵本の中にでも出てきそうなかわいらしさだ。

こんなに実が生るのだから近くに雄株もあるのだろう。しかしこの木はいかにも大木といった素直な感じで、特徴とか何か変わったところが見あたらない。冬になって実が付いて初めてクロガネモチだと気付く。だから実のできない雄株は、どこかにあっても目にとまりそうもない。花が咲いても小さく高いところだし、まず気がつかない。いつか雄花の写真を撮りたいとずっと宿題にしている。
posted by 夜泣石 at 06:54| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

貝拾い

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海辺に行くと、人はそれぞれにいろいろな楽しみを見つけるものだが、私はいつもつい貝拾いを始めてしまう。幼い頃の夏休みは東京湾のそばの叔母の家で過ごすのが恒例だったが、埋め立て前のそのあたりは海の生きものの宝庫だった。毎日浜辺で見つける珍しいものの数々が、私の中に生きものへの興味と美しさへの感動の両方を育ててくれたように思う。

屋久島の海辺でちょっとがっかりしたのは、きれいな貝殻があまり拾えないことだった。もちろん南の島には貝殻は多い。しかし岩場と叩き付けるような荒波のために、だいたいは破片ばかりになっている。それでも目をこらして探すうちに、欠けていない小さな貝殻の混じっているのに気付いた。こんなにも小さく美しい宝石のようなものに出会ったのはこの島が初めてだった。

なかでも黄色の二枚貝はきれいだ。海水にぬれると半透明の向こうに夢の世界が隠されているような気さえする。海の底にこんな色の貝があるとは知らなかった。といっても、これは幼いうちだけの色で、大きくなると全然違ってしまうようだ。当然、図鑑にはこの色では載っていないから名前はわからない。

横から見るとすっきりと三角形をした赤い巻き貝もきれいだ。濃いもの薄いもの、模様もそれぞれに違っている。海の底にはこんなかわいらしいものを生み出す小さな隠れ家がたくさんあるのだろうか。しかしこれらも大きくなると褪せたり黒ずんだりして、見る影もなくなってしまうようだ。

波の音を聞き、潮風に吹かれながら砂浜を歩く。その足下に海からの贈り物が届く。こんなに美しいものはそれほど多くはないが、めったに拾えないほどでもない。貝拾いはすっかり寒くなった今頃が良いそうだ。水温が下がって海の底で多くの貝が死ぬからだという。またこの島では浅瀬がないから、深い海の底に棲む珍しい貝も拾えたりするのだそうだ。
posted by 夜泣石 at 06:40| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2009年01月10日

オガタマノキ

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屋久島の冬、木々の間の道を歩いていると、白い花びらが散り敷いているのに出会う。せいぜい少女の親指くらいの大きさで、根本の方からにじみ出た赤紫がきれいだ。手に取ってみると、びっくりするくらいの良い香りがする。パイナップルの濃厚な甘さに柑橘系のさわやかさが混じったような、ちょっと比べるもののない香りだ。

高い木のずっと上の方に、閉じ気味の花が見え隠れしている。近くでよく見たいと思ったが目の高さに咲いているものはない。山道や里の周りなどあちこちで花びらは拾うが、いつも花は、かなえられない望みのように遠くにあった。そうしてやっと巡り会えたのは、数年も思い続けた後のことだった。

オガタマノキという名前も、花と同じように神秘的だ。たましいを招くという招霊(おぎたま)からきているという。しかし薄暗い林の梢の陰でほの白く咲いている姿は、招かれたというより行き所なくさまよう中で、ほんの一時の安らぎを得ているだけのように見える。

関東南部から南西諸島にかけて分布しているそうだ。しかしそのあたりの山野を昔はあちこち歩いたものだが見つけたことはなかった。屋久島では自然の巨木に思いがけず出会うことが時々ある。あたかもこの島の深い照葉樹林に、たましいたちが寄り集まって来たというかのように。
posted by 夜泣石 at 06:47| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年01月07日

屋久島町長告訴のビラ

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のんびりとゆったりと、いつの日にか

昨年暮れ、屋久島町長告訴の進行状況を伝えるビラが、裁判を支援する会によって屋久島町のすべての家庭に配られた。内容はまず告訴の概要を簡潔に要約した後、
1.日高十七郎氏側、裁判引き延ばしを画策
2.裁判費用は町民の税金でなく日高十七郎氏個人が支払うべき
の二点について特に強調した説明があった。

第1の点に関しては、12月15日付けで裁判所から被告側弁護士に連絡書面が出されている。そこには次回までに準備しなければならないこと、及びその期日について具体的に記されている。内容は前回公判での裁判官の指示したことの繰り返しだが、改めてこんな書面を出すのは極めて異例のことのようだ。プロの弁護士としては、こんなものを受け取ってしまったことはとんでもない恥になるだろう。口頭だけでは判らない奴だと判を押されてしまったわけなのだから。そしてその中に「補正書記載の請求の原因に対する認否・反論書面(本案の答弁・認否等)の提出」と明確に記されていることは、裁判所としても逃げ回ることは許さず、もう実質審理に入ると宣言したと受け取ってよいと思う。

第2の点については、前回の議会で町長は自ら「心苦しい」と答弁していた。それくらいの良心はあるようだから、次回公判までにはきっと誠意ある対応をしてくれるものと期待したい。

ところでこの島では情報伝達のほとんどは口コミに依っている。島の新聞とか放送とかなく、都会ではあれほどあふれているビラや張り紙などもほとんどない。本土からの新聞はあるが、島の記事などめったにないし、そもそも新聞を取っていない人も多い。月一回、町報などがまとめて配られるが公的なお知らせばかりで、議会便り以外は意見を聞けるものはない。

口コミにおいては、情報は話す人によっていくらでも変質する。しかもそのルートは、地縁血縁などでだいたい固定される。その強い人間関係のためか、聞く側も客観的に自分で判断することなどなく、まずそのまま受け取ってしまう。この屋久島町長告訴の件もきっとほとんどのところで、つい最近まではボロクソに言われていたことだろう。

このまとまりは、そのまま政治的グループにもなり、腐敗の温床になる。昔は日本中の田舎の選挙で、票は金で買うのが当たり前だったが、それがここでは今でも続いているそうだ。まっとうな情報や異なる意見が伝わる事がないから、こうしたグループが強固に、閉鎖的に温存されてしまったのだろう。また仲間みんなが昔からやっているのだから、悪いことをしているという意識も薄いはずだ。そうして金をばらまいたものが当選し、地位を利用して金を作る。それを使ってまた当選する。多選首長、多選議員ばかりになるのは当然だろう。

こんな社会で、少しでも真実を伝えようと思えば、まずビラを配るしかない。特に聞く耳を持ちそうにない年配の人たちでも、ビラならちょっとは目にとまるだろう。あれっと思って読んでくれたらしめたものだ。ビラを作って配るのはお金も労力も大変なことだ。しかし変革を志す人々にとっては避けて通れないことだと思う。

この裁判が勝利した時、人々は口コミよりビラの方が正しかったと判ることになる。大きな意識の変化につながるだろう。その意味でも今回のビラ配りの意義は大きかったと思う。
posted by 夜泣石 at 10:23| 屋久島町の動き | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

オオシマノジギク

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正月の寒波で、屋久島といえども早朝は10度をだいぶ下回るようになった。そんな中でも白い菊が、まだまだ一面きれいに咲いている。これは数年前、海のそばから一枝折り取ってきて挿したものだ。我が家の道路際の石積みのあたりに植えたのだが、ずいぶん増え広がって、ひょろ長く伸びたものは石積みをすっかり覆っている。

いささかみっともなく垂れ下がった枝を刈り取って花瓶に挿しておいた。ふと部屋の中に甘美な香りの漂っているのに気付いた。こんなに良い香りを持っていたとは外では気がつかなかった。清楚な感じの花とは不釣り合いなほどの、濃厚とも言える甘い香りだ。

この菊の名は、以前いろいろ調べてやっとオオシマノジギクだと判った。我が家には先にサツマノギクを植えていたが、花は区別が付かないほどよく似ている。近くに並べて植えて、やっといくつか違う点に気付いた。まず葉の裏の白い毛の量がまるで違う。サツマノギクはびっしりで、表側からも白い縁取りになってくっきり見えるが、オオシマノジギクはさほどではない。なにより花の咲く時期がだいぶ違う。サツマノギクの方が一月以上早く、いっせいに豪華に咲く。オオシマノジギクはかなり寒くなってから咲き出し、ばらばらと長く続く。そして萎れかかる頃、花びらにはきれいな赤みが差してくる。

サツマノギクの分布は九州南部から屋久島まで、オオシマノジギクは屋久島から奄美大島にかけてだそうだ。どちらも分布域の狭い珍しい花で、しかもそれらが両方見られるのは屋久島だけのようだ。サツマノギクは屋久島の北部で、道路際などにシロノセンダングサ(タチアワユキセンダングサ)に負けじと咲いているのに気付いた。オオシマノジギクはあまり見かけない。海岸近くの畑の脇などにたまにひっそりと咲いている。農家の人にとっては邪魔な雑草の一つくらいにしか見えないのだろう。無残に草刈りされていたりする。
posted by 夜泣石 at 10:08| 花草木 | 更新情報をチェックする

2009年01月01日

自分作り

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我が家から眺める初日の出

淡々と一日が終り、また同じ日が続いていく。寂々と一年が終り、何事もない年月が過ぎていく。どこにも行かず、誰とも会わず、自然の中の静かな日々。私が屋久島に移住して求めたのはそんな生き方だった。

しかし昨年、思いもよらずそれを覆えす出来事が起こってしまった。きっかけは持ってこられた申請書に気楽に判を押してしまったことだった。たとえは悪いが世間では、頼まれて知人の保証人になったところ、その知人が行き詰まり、あげくに自分まで破産に追い込まれるような事件が時々ある。私の心境もまさにそれに近いものだった。

私は長年ビジネスの現場で働いてきたが、そこは自分本来の能力や適性などとはかけ離れた世界だった。ここは自分の居場所ではないと思い続けて、やっと年金をもらえる年になるとさっさと辞めて南の島に移住した。仕事の中で鍛えられ培われてきた第二の自分を、仮面のようにあっさり捨て去ったつもりだった。

しかし公の場で、思いがけず突然矢面に立たされた時、飛び出してきたのは捨てたはずの仮面だった。そしてそれが危機を救った。しかもその時、以前のような心の底の違和感などなく、それどころかどこか心地よかった。きっとそれは、正しいことを、やるべきことをやっているという思いのためだったのだろう。ともかく仮面と思っていたものは、しっかりもう一つの自分の顔になっていたのだった。

そうして私の生活は変ってしまった。法廷も政治も初めてのことだったが、今のところ何とか乗り切ることができている。今年前半にはその結果が出ることだろう。そこで私の役目は終り、また元の世捨て人の生活に戻れるだろうか。それともその後に続くであろう様々な混乱にまた巻き込まれるのか。あるいはそれどころでなく、昨年秋から世界中を揺るがしている嵐がこの小島をも巻き込み、我々の生活そのものに危機が及ぶこともあるかもしれない。

しかし何に出会っても、どんな状況になっても正面からそれに対処すればいいという気持ちになっている。かつてやったように必要な能力を身につけ、また別な人間性を養い、そして新しい自分を作っていけばよいのだ。

「人間到る処青山有り」という言葉が折にふれて口に出る。この意味は、世の中、死すべきところはどこにでもあるということだそうだ。青山の説明には骨を埋めるところ、墓所と記されてある。しかし私はこの言葉に、はるかな希望の地といった響きを感じてしまう。

自分本来の居場所と思い込んだところにこだわりしがみつき、狭い穴にはまり込むのだけが人の生き方ではない。新しい世界に飛び出して生きていく。あるいはどうしようもなく投げ出された現実に対し、生き抜いていける自分になる。あてもない「自分探し」でなく、真っ正面から世界に取り組む「自分作り」。一生それを続けていけばよいのだと思えるようになってきた。
posted by 夜泣石 at 11:31| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする
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