2008年07月29日

ツマグロヒョウモン

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屋久島に来てすぐ、庭にきれいな蝶のいることに気付いた。ここでは大きな黒いアゲハや華やかなツマベニチョウがいつも悠然と空を舞っているが、この豹のような模様の蝶はたいてい葉に止まってじっとしている。きっとこの庭で生まれ育ったのだろうと愛おしく思った。


交尾中のものを見つけて、ずいぶん色の違った2匹が同じ種類の雄と雌であることが判った。普通の感覚とは逆に色の濃い方が雌、明るい方が雄だった。近付きすぎたら、くっついたままひらひらと少し先の葉陰に飛んでいった。といっても2匹が協力して飛ぶなどという器用なことはできないようだ。片方が飛んで、他方はおしりの先にぶら下がったまま運ばれていくのだった。


雌は羽を開くと先の方が黒々としている。それでツマグロヒョウモンという名前が付いている。この模様は毒のあるカバマダラに擬態しているのだそうだ。雄にはそんな模様はないが、全体の色合いはかえって似ている。カバマダラも我が家で羽化しているので、このあたりの鳥はこのような色の蝶は食べられないと学習済みかもしれない。


ところで庭の雑草の間を、かなり目立つ色のちょっと大きめの毛虫が時々歩いている。真っ黒くて、背中にくっきりと朱色の筋が通る。その筋の両側に疣のような突起が並び、その先は枝分かれしてトゲトゲになっている。踏みつけそうになって思わずドキっとするのだが、別に毒があったりするわけではないそうだ。それがこの蝶の幼虫だった。彼らはスミレを食べる。スミレの葉は、今頃はだいぶ大きくなっているが、それでもこの幼虫には不足に見える。地面を歩くのは、食べ尽くして次の株に移るためかもしれない。


南方系の蝶ということで、この島に来るまであまり見た覚えがなかった。しかし近年、温暖化でずいぶん北上し、最近は東京あたりでも土着しているそうだ。パンジーやビオラなどあちこちにたくさん植えられているから繁殖にも良いのだろう。それはともかく、クマゼミやナガサキアゲハなど、屋久島と東京で動植物が同じになってきたというのも、つまらなく思うだけでなく恐ろしいような気持ちになる。
posted by 夜泣石 at 06:43| 生きもの | 更新情報をチェックする

2008年07月26日

ツルアジサイ

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夏の初め頃、高山に行くとあちこちの木に白い花が目立つ。といってもその木が咲いているのでなく、絡みついた蔓から短い枝が出て、その先に花のかたまりが付いているのだった。たくさん咲いていて高木や枯れ木を飾り付けているが、きれいな花は上の方に多く、なかなか近くで見ることができなかった。


たまたま崖淵に生えているのがあって、花を上から見ることができた。アジサイそっくりだが、白い火花がぱちぱち弾けている感じでとてもきれいだ。打ち上げ花火の中に、こんな感じにちりちりと大空に広がるものがあったのを思い出す。


アジサイの仲間のツルアジサイだった。周りの白い花は装飾花で、花びらのように見えるのは萼片だった。それらに囲まれて花びらのない小さな花がたくさん咲いている。火花が飛び散っているように見えるのは、他のアジサイよりも雄しべが長く数も多いからだろう。面白いことに花びらは先端がくっついて帽子のようになっていて、花が咲くと同時に落っこちてしまうのだそうだ。もじゃもじゃの雄しべが帽子を脱ぐと、たちまちぴんとする様子がかわいらしい。


蔓になるアジサイがあることは昔、東京近郊の山で知った。珍しいものかと思ったら、実際は日本全国の山地に普通に分布しているのだった。屋久島は南限だそうで、しかも低山では見あたらず1000mを超える高山に多いから、あまり暑すぎるのは苦手なのだろう。このあたりの高木はたいてい蔓がびっしりと絡みつき、また梢にいろいろな低木が着生して訳がわからなくなっている。この時期花が咲いて、初めてツルアジサイがたくさんあるのに気がつく。
posted by 夜泣石 at 05:57| 花草木 | 更新情報をチェックする

2008年07月22日

満足のいく家

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我が家から眺めたある日の朝焼け


住んでいる家に満足することは、毎日を心穏やかに暮らすためには欠かせないことの一つだと思う。私はずいぶんいろいろなところに住んできたが、ここで初めて、満足のいく家を手に入れることができたと感じている。


我が家は地元の大工さんに建ててもらった木造の二階屋で、どこにも贅沢なところはない。部屋を区切らす、コア部分と私の書斎以外は各階一部屋ずつになっている。家具らしいものもほとんどなく、そのため広々とした感じがする。壁は杉板を打ち付けただけのもので、何も塗ったり貼ったりしていない。自然なままの木目と木の香りが気持ちよい。電灯は事務所にあるようなむき出しの直官の蛍光灯を天井にべたっと付けてあるだけだ。しかしインバーターの電球色だから、柔らかな光が部屋全体を明るく照らす。出っ張りが少ないから邪魔にもならず埃も付かず電気代もかからない。


四方に窓があるので、今の季節、日の出の5時半頃から日没の7時過ぎまで明かりを付ける必要がない。家の中を覗くのはお日様とお月様だけだからカーテンはない。カーテンのない窓は実にすっきりしているし、お金も手間もかからない。日差しが強すぎる時はそこだけ雨戸で遮る。


今年はまだ一度も冷房を入れていない。日中はかなり暑いが耐えられないほどではない。たいてい心地よい海風が吹き抜けている。夕方になると山風が降りてきて急に涼しくなる。ここは北海道や軽井沢ではないから、冷房なしで済むというのは意外だろう。実際近所には一日中ガンガンに冷房している家もある。我が家の場合、恵まれた自然環境とそれに合わせた家の作りが自然のままの生活を可能にしている。そして南国だから、冬も暖房することは滅多にない。エコとか省エネとか最近ずいぶん騒がれているが、我が家ほど徹底しているところも少ないと思う。何より自然の暑さ寒さのままでいられるのが健康的だ。


そしてすばらしい景色が楽しめる。東の窓からは海が見え、冬はそこから日が昇る。北には目の前に1000m近い山が屏風のように聳えている。あたりは一面の緑だ。明け方の鳥の声、夕方の虫の音、そして一日中心地よい渓流の音が響いている。物見櫓のようなデッキが作ってあって、そこに上れば広い空の下、すべてが眺められる。夜の星空も感動的だ。


ここにいるとどこかに出かけたいという気がなくなる。もともと出歩くたちではなく、家で本を読んでいるのが好きだったから、これからますます引きこもりになりそうだ。しかし都会のそれとは違って、肉体的にも精神的にも健康的な引きこもりだ。こんな家が普通のサラリーマンの退職金だけで手に入れることができる。世の中では田舎暮らしというと何か特別なことをするように思われているが、このような家で暮らすためというだけでも良いのではないだろうか。
posted by 夜泣石 at 06:26| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2008年07月19日

サツキ

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都会にいた頃、サツキは庭や公園によく植えられていたから、園芸植物だとばかり思っていた。だから屋久島に来て、渓流沿いに自然に生えているのを見て驚いた。しかも庭などにあるものより、かえって鮮やかなくらいなのだ。原種はたいてい、小さくみすぼらしかったりするものだが。


それにしてもとんでもないところに生えている。ここは川岸の岩の垂直の崖面だ。土などありそうもないところで、岩のわずかな割れ目にしっかりと根を下ろしている。屋久島の川は一雨降ればとんでもない激流に変わる。ここは数日前の大雨では水没していたはずだ。壊れた花が目立つのも水流に引きちぎられたためだろう。しかしひとたび水が引けば、すぐに何事もなかったかのように新しい花が開く。


年中激流に見舞われているため、丈は低く、幹は下流に向かってねじ曲げられている。よくもこんなところを住み処に選んだものだと思う。もっとも庭に植えれば背丈ほどの高さにも大きくなるのだから、ここが特に好きだというわけではなさそうだ。ただ競争相手の入ってこれないところで、しぶとく生きていけるということなのだろう。


神奈川県あたりから南に分布し、この屋久島が南限だそうだ。といっても生育地は全国にそんなに多くはないという。この島ではあちこちの渓流で普通に見られる。1000mを超える高地では夏の初めの2ヶ月ほど、ずっと咲き続けている。厳しい環境でしっかりと子孫を残すため、こんな鮮やかな花を咲かせて虫を呼んでいるのだろうか。高地のサツキは深みのある赤が特にきれいだと思う。作戦はうまくいっているのだろう、岩の割れ目という割れ目にサツキはびっしりと茂っている。
posted by 夜泣石 at 05:51| 花草木 | 更新情報をチェックする

2008年07月15日

至福の時

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ひどく暑かった一日が暮れていく。先ほどまで炎天下で汗まみれになって草刈りをした。それから冷たい川で手足の汚れを落とし、風呂に入った。今、ビール片手にデッキで涼んでいる。南の島の真夏なのに、夕暮れの山風は裸の肌に寒いくらいだ。近くの林ではツクツクボウシが愉快に騒いでいる。時折サンコウチョウがかわいらしい声を響かせる。そして影絵となったモッチョム岳の向こうに、夕焼け空がだんだんと暗くなる。


毎日、こうやって過ごす一時が何物にも代え難い。幸せな人生かと聞かれたら、判らないとしか答えられないが、今は満足かと聞かれたら、もう十分だと答えることができる。ふと、よくもこんな暮らしを手に入れることができたものだなと思う。決して順調に来たのではなく、振り返れば綱渡りの連続だった。ただこんな生き方をしたいと、いつも心の中で思っていた。


夕空は日々その姿を変える。ある日は英雄伝説にでも出てきそうな、激しく真っ赤に燃えるような夕焼けだった。別な日には寂しげな暗い灰色の雲に、わずかな赤みが忍び泣くように差しただけだった。


この日、ぼんやりと霞んでいた空が、沈み込むように深い青になっていった。そして真綿のように広がっていた雲が、一面赤く染まってきた。特別なことなど何もなく、あまり気にも止めなかった淡い夕焼け。その優しく穏やかな情景が、今の私にはとても心地よいものになっている。
posted by 夜泣石 at 22:39| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする

2008年07月12日

ソヨゴ

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先日アオツリバナを見に行った時、その近くで5mmもない小さな花がぱらぱらと咲いているのに気がついた。真ん中の丸い玉の周りを真っ白な花びらと雄しべが飛び出すように囲んでいる。ふと、ミルクの中に玉を投げ入れて、波が飛び散る瞬間の高速写真を思い出した。


真ん中は二段重ねの和菓子か何かのようだ。これは下の薄緑の部分が子房で、上の黄色い部分が柱頭なのだった。普通はこの間に雌しべの糸があるのだが、この花ではそれがなくなって直接くっついている。周りにある雄しべは紙細工のようにぺしゃんこで葯の膨らみがない。これは退化していて花粉が出ないのだった。だからこの花は雌花で、別の株では逆に、雌しべの退化した雄花だけがある。


あまり見かけない花だと思ったが、モチノキ科のソヨゴだった。モチノキ科は鮮やかな赤い小さな実をたくさん付けるので庭木によく利用される。花は小さく気が付かないことが多いが、よく見るとどれもこんな感じでかわいらしい。ソヨゴはあまりたくさん実を付けないが、葉の感じがよく、庭木として人気があるそうだ。確かに周りの照葉樹と比べて、薄くやわらかく、明るい緑がすがすがしい。葉柄が長めで、風が吹くと葉がこすれて音がして、いかにもそよぐ感じがするのでソヨゴになったのだそうだ。童話にでも出てきそうなほのぼのとした良い名前だと思う。


関東南部から南に分布して、南限はここ屋久島だそうだ。本州などでは山地に普通にあるというが、当地では1000mを超える高山でしか見たことがない。暖かいところが好きといっても暑すぎるのは苦手なのかもしれない。ここならばソヨゴの名にふさわしい涼しげな風がいつも吹いている。
posted by 夜泣石 at 06:09| 花草木 | 更新情報をチェックする

2008年07月08日

屋久島町長の犯罪

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梅雨明けのモッチョム岳


屋久島町長の疑惑を追求するコスモ出版の「くまもとTODAY」の第二弾が送られてきた。「税金泥棒町長(日高十七郎)の犯罪手口」と恐るべき表題になっている。内容は数々の疑惑のうち、中心市街地活性化事業の用地買収に関する犯罪行為の詳細だった。以下、私の理解できた範囲で要約してみる。


用地買収に際し、町長は屋久町公有財産取得委員会に諮問している。地方自治法ではこのような機関の設置には条例が必要と定めてある。ところがこの委員会は条例によって作られていず、町民の目に触れない内規があるだけだった。つまり委員会の存在自体が地方自治法に違反している。
(ちなみに、この委員会の長は町長自身である)。


委員会は調査報告書を出しているが、法的根拠のない組織が公文書を作ったということで、これは虚偽公文書作成罪になる。


問題の土地について委員会は、現地確認、実測など行わず、時価評価額調書も添付せず、取得の決定を行った。これは公有財産管理規則に違反する。
(この土地の中に、広大な崖地が他の平地と同じ単価で含まれていた。そこは誰が見ても使い道がないどころか、落石などの危険防止のため数億円の工事が今後必要になる。町は土地代金とともに二重の損害を被ることになる。これらは現地を一目見れば判ることだった)。


委員会の決定を受けて、町長は「中心市街地活性化事業の用地取得」の議案を議会に提出した。ところが大本の「中心市街地活性化事業」の方の公文書には問題の崖地は事業予定地として入っていない。つまり目的のないものを紛れ込ませた訳で、これは虚偽の議案といえる。調査もしていないのに調査したように見せかけたことと併せて、二重に町議会を欺き議決させている。こうしてこの土地を取得したことは、虚偽公文書作成罪(議案は公文書にあたるため)、虚偽公文書行使罪、さらに町財政に甚大な損害を与えたことで詐欺罪が成立する。
(町長は一般質問で「議会の議決を経て粛々とことを進めており、何らやましいことは無い」と答弁している。虚偽の議案で議会を騙したことはやましいことではないと思っているようだ)。


法律的には以上だが、そもそも常識的にあり得ないこととして、町長の諮問を受けて審査する委員会の長が町長自身ということがある。これではまともに調査や検討など行われるわけがない。結局すべては町長の自作自演であり、委員会など、町長による独断専行と町政の私物化の隠れ蓑になっているに過ぎない。


私は法律には疎いが、上記の内容は全く納得できるし、十分調査し証拠を固めた上での専門家の解釈だから、町長の犯罪は明らかといえる。そして犯罪となると警察や検察の出番になるはずだ。では屋久島で、これからそういう展開が期待できるだろうか。しかし聞くところによると、警察や検察というのは、不正を必ず暴くというのでなく、かなり恣意的なところのようだ。この町長の、狭い島の中での20年もの長期政権は、当然警察の中にも強い影響力を築いていることと思われる。彼らに期待するのは苦しいときの神頼みにもならないかもしれない。


そもそも本来は議会が騙さたことを怒らなければならないはずだ。しかしそれどころか先日の定例議会で、この問題の調査特別委員会設置の案件に、22名中18名が反対している。調査することすら自ら拒否しているのだ。これでは騙されたのではなく、町長とグルになって町民を騙したと取られても仕方がない。傍聴者の話によると、反対発言したある議員の理由は「この様な事実は無いと確信している」ということであったそうだ。疑惑追及はこれだけ証拠を挙げて法律論を展開しているのだから、反論するのなら、そのどこが違うのか事実や論理でもって応えなければならないはずだ。議会とは議論をする場なのに、この議員は信仰を告白する場だと思っているようだ。


町長は、「コスモ出版を名誉毀損で訴える積もりはないか」との質問に「この問題に関しては、町民は必ず理解してくれると思っているので、その積もりはありません」と答えたそうだ。残念ながらその通りかもしれない。多くの町民は、町長や各地区の利益代表である取り巻き議員の言うことをまず聞くだろう。こんな話はでたらめだ、誹謗中傷だ、反対派の陰謀だ、といった言葉を信じて、そもそも記事を読もうともしないかもしれない。これだけ真実を暴いて記事にして、それを何千部も配ってもらったところで、空しさだけが残るようだ。


結局心ある人たちが、さまざまな監査請求や住民訴訟を一つ一つ起こしていくしかないのだろう。記事には収入役という狙い目が書かれてあった。実際の予算の支出は収入役の仕事であるが、収入役には審査権があり、適正であるかどうか確認する責務があるのだそうだ。しかし今回は無審査で通過させてしまっているので、賠償責任を追求できるとのことだ。


そしてどう考えても今の議会では屋久島の政治の健全化は図れそうにない。議員のリコール、議会の解散に持っていく必要があるだろう。しかしそれで議員の入れ替えができるかどうかは心許ない。ここでは多くが、地縁血縁や利益関係による組織票なのだ。各地区の有力者がそれぞれを押さえてしまっている。


ところで屋久島には移住者が多い。すでにたとえば平内地区など、住民の半数近くが移住者だそうだ。移住者が自覚すれば、犯罪に加担している地区代表議員など落選させることができるはずだ。移住者にはブログを書いている人も多いが、ほとんど誰も政治や行政などには触れようとしない。しかし屋久島の自然や人情がどんなに良くても、行政が破綻してしまったら暮らしていけない。我々はせっかく移住して来たのに、またどこかにさすらっていかなければならなくなる。屋久島で最大の浮動票層として移住者に期待したい。町長と共に町を食い物にしてきた古参議員の何人かでも落とすことができれば、改革の糸口になるだろう。
posted by 夜泣石 at 09:52| 屋久島町の動き | 更新情報をチェックする

2008年07月05日

アオツリバナ

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東京にいた頃、周辺の山々で時々ツリバナを見た。緑がかった白の小さな地味な花だが、細い糸の先につり下がって、ぱらぱらと咲いている様子はとてもかわいかった。そして秋になるとまん丸な赤い実になって、そのうちそれが割れて、赤い種が果実の皮の先にくっついてぶら下がる。落ちようとして、途中で引っかかってしまったという格好のまま冬枯れていくのだった。


だから屋久島で春につり下がった蕾を見つけたときは、懐かしいツリバナにまた出会えたと思ってうれしかった。そして花の咲く頃を見計らって、また見に行った。しかし一目で唖然としてしまった。それは似ても似つかぬ色の妖しいような花だった。


艶のある濃い臙脂は動物的な色だ。厚めの花びらはなぜか反り返っていて、それが4枚あるから花は四角い塊のように見える。真ん中の花柱は血が通っているかのように赤い。それを囲む4つの雄しべの、大きめの白い葯は目のようだ。そのあたりには一面蜜が滲み出て、きらきらしている。なんだか不思議な海の生きものを思い起こさせる。


これはアオツリバナという別種で、屋久島と、あとは九州南部にちらほらあるほどの稀な種類だそうだ。1000mほどの高山で、他の大きな木々に隠れるように、道脇などにそっと生えている。あるところにはまとまって何本もあるが、他ではほとんど見たことがない。屋久杉に着生もしているそうで、こんな謎めいた花は、巨木の梢の飾り物に似合うかもしれない。花はずいぶん違っているが、果実はツリバナとほとんど同じかわいいものだそうだ。秋に来れば、今度こそ懐かしい姿を楽しむことができるだろう。
posted by 夜泣石 at 06:16| 花草木 | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

足るを知る

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我が家から見たモッチョム岳の夕焼け


世の中には箴言とか格言といった、端的な戒めが数多くある。そんな中で私が事あるごとに心の中でつぶやいてきたのは「足るを知る」という言葉だ。よく知られた教えだが、なんとか身についてきたかなと感じるのはやっとこの数年のことだ。


これは欲望を戒めたもので、今の自分に満足するよう教えている。人の欲望は無限だから、追い求めている限りいつまでも満たすことはできない。しかしふり返れば、すでに手に入っているものだけで自分にとっては十分だと気付く。幸せは求めれば遠のくばかりだが、気がつけば目の前にある。


思い返してみれば、私の育ったのは高度成長期で、国を挙げて豊かさを追求し続けた時代だった。また就職した先は時代の先端のコンピュータの国際企業で、そこでは飽くなき欲望を是としていた。私もその流れに乗っていた時期もあったが、そのうち落ちこぼれてしまった。そして全く違った生き方をしたくなって屋久島へ移住したのだった。


しかし身についた性癖は変わらないもので、田舎暮らしもいろいろなものを追い求める日々だった。当然のことながら自然に恵まれた屋久島といっても、珍しい花がいつも咲いていたり、すばらしい景観がどこでも眺められるわけではない。それを不満に思ったりした。何よりやりたいことのわずかしかできない日々に焦ったりもがいたりしていた。


それでも豊かな自然は、徐々に気付きを促してくれたようだ。人はそれを癒しというのかもしれない。3年もすると、見飽きた散歩道にたった一つ花を見つければそれでうれしく、庭にわずかな果物が生っただけでも楽しく、時間をかけてじっくり一冊の本を読み終えれば満ち足りた思いがするようになった。これが足るを知ることだなと思えてきた。


物もあまり買わなくなった。本は図書館から借りて読み、もう一度読みたいと思ったものだけ買うことにした。離島はいつも物がそろっているわけでなく欠品も多いから、良いものを見つけたときは予備にでも買っておくようにはしている。しかし衣服など、だいたい半額以下の割引品ばかりだから金額はわずかだ。


こんな静かな日々の中で、先々月突然右目がほとんど見えなくなったのには慌てた。医者から治療は長引くと言われて、ともかくパソコンは使いたいので、目の近くに持ってこれるノートパソコンを買おうかと思った。結局それは、今使っているモニターの台の底によく滑るテープを貼って、好きな位置に簡単に動かせるようにして対応できた。


しかしこの時、パソコンのカタログを見ていて、ふとかなり高性能で私の欲しい機能の揃っている機種が目にとまった。今使っている機種は、通常使う分にはほとんど足りているが、画像処理には力不足でかなりいらいらさせられることがよくある。それでも毎日それをするわけではないし、締め切りに追われるなどもない。いつもの私なら、自分にとってはこのままで十分だと思うところだ。ところが今回は、そう考えてもどうしても欲しい気持が抑えられない。数日迷ったが結局買ってしまった。


今、眼病治療で飲んでいる薬には副作用として覚醒効果があるようだ。なかなか眠れないしすぐ目が覚める。このところ早朝4時起きが続いて睡眠不足なのだが、それであまり眠いとも思わない。気分がいつも高揚している感じなのだ。それがまたどうしようもなく購買意欲を刺激してしまう。先日もふと立ち寄った店で、帽子と靴を買ってしまった。前から買うつもりではいたのだが、まだ古いのが使えると先延ばししていたものだったが。


なるほど、浪費癖のある人の気持とはこういうものかと少し判った気がした。脳の活動がいささか行きすぎているのだ。ともかく脳内物質のバランスが少し崩れただけでこんなことになるのが恐ろしいような気がした。そして悟ったようなことを言っていても、こんな薬くらいで左右されてしまう自分が、ふがいないような情けないような気がしてしまった。


しかしまあ、私の買うものなどどれも実用品ばかりで高価なものではない。薬は当分飲み続けなければならないが、その間に経済的に追い詰められたりはしそうにない。パソコンはそれなりの金額だったが、私は余技に、それを使って絵葉書や写真を作って土産物として出している。その売り上げの2ヶ月分ほどだから、まあ妥当な設備投資のようなものだろう。


それより「足るを知る」から落ちこぼれていないと思ったのは、買った後とても満足したことだった。浪費癖の人は、買っても満足できず、次々に買い求めるのだろう。私は良いものが手に入ったことがうれしく、すぐに毎日のように使っている。その満足感がとても良く、我慢していないでもっと早く買えば良かったとさえ感じたほどだ。


パソコンも買った後、すぐにああよかったと思った。そしてこれでそろそろ終わりかなという気がした。私の使い方ではもうこれ以上の機種はいらない。これを使い切ることになりそうだ。古い方をバックアップにして、修理しながら10年近くは使えそうだ。そしてそのころまだ元気だったら、もう一度くらい買う。私のパソコン歴は長く、ずいぶんいろいろ使ってきたが、そのあたりが私の生涯最後のパソコンになりそうだ。


こんな気持を持ったのはカメラも同じだ。半年ほど前、今のカメラを手に入れた。前の機種が故障がちで何度かシャッターチャンスを逃したので、いささか衝動的に買ってしまった。中級機のレベルでちょっと高かったが、使ってみて、ああもうこれでいい、自分にとっては十分だと思った。私は若い頃からカメラが好きで、いろいろ買ってきたし新製品ニュースなどこまめに見続けてきたが、それ以来興味をなくした。もう他のものなどどうでもよく、これが壊れるまで使えばいい。これが故障がちになったら、その時点での後継機種に乗り換えるだけだ。たぶん今の使用頻度なら、それかその次くらいが私の買う最後のカメラになるだろう。


若い頃は未来というのを無限に感じていた。すべてのことに終わりという感覚はなかった。物はまた買うし、どこにでもまた行くだろう。それが今は、何かにつけてこれが最後かなと思うことがしばしばある。しかしそれで悲しいとかつまらないなど感じたりはしない。かえってあれこれ振り回されなくなってよかったと思うくらいだ。


「もし、あと一ヶ月で必ず死ぬと宣告されたら、その一ヶ月に何をしたいか」という課題に出会った。私は何をしたいだろうか。特に何も思い浮かばない。もう終わりなら物など欲しいとは思わないだろう。行ってみたいところなら、ガラパゴスやマダガスカルなどいろいろあるのだが、残り少ない時間を浪費して無理してでも行こうとは思わない。故郷を懐かしいと思い出したりはするが、もうどこにも子供の頃のあの情景はない。人生最大の楽しみは人との交わりだそうだが、私の人間性はそのあたりが欠けているようだ。まあ孫くらいには一度会ってみようかと思うが。


せいぜい人に迷惑をかけないよう身辺の整理をするくらいか。それからパソコンに向かって、思いの丈を少しでも多く書き綴るか。それは結局、今の生活をそのまま続けるということになる。うれしいことに、このまま平穏に過ごすことが生涯の望みと思うようになれたようだ。それでもこれから先、まだまだ迷ったり馬鹿げたことをすることもあるだろう。そんな時はまた「足るを知る」とつぶやくことだろう。
posted by 夜泣石 at 22:15| 屋久島暮らし | 更新情報をチェックする
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