2008年06月28日

コンロンカ

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谷沿いの深い緑の合間に、白いものがちらちらしていた。よく見ると真っ白な葉のようなものに囲まれて、オレンジがかった黄色の花が、小さな星をちりばめたように咲いていた。濃い緑、純白そして黄色の配色は、薄暗い梅雨空の下でもよく目立つ。アカネ科のコンロンカだった。


白いものはまったく葉の形をしている。東京あたりの山でよく見たマタタビが花の時期、こんな葉を付けていた。またポインセチアイワタイゲキなどが、やはり茎の先の葉を赤や黄色に染めて、小さな花を目立たせていた。


しかしコンロンカでは、これは葉ではなく萼だった。普通、花弁や萼は同じ形のものがきれいに並んでいるものだ。それがこの花では外側の一枚だけが巨大化している。他に4枚の萼があるが、それらは痕跡程度の小さなものだ。こんないびつな形など、あまり他の花では見た覚えがない。ともかくこれで遠くからでも目立つのだから、この花の戦略は成功しているといえそうだ。ばらばらとまとまりのない感じが、かえって効果的なのかもしれない。


コンロンカという名は、この白さを崑崙の雪にたとえたのだそうだ。崑崙というのは中国の伝説の聖山で神仙の住むところという。山頂の雪ということなら別に富士山でもよいのにと思うが、わざわざ異国の話を持ち出したのは、より神秘性がありそうだからか。最近は園芸化されて、ハンカチの花などとも呼ばれている。なるほどハンカチを振っているようにも見えるが、なんだか箔が落ちてしまったようでちょっとつまらない。


屋久島あたりから南に分布するそうだ。ここでは低地の湿り気のあるところで時々見かける。半蔓性ということで、下の方はしっかりした木に見えるのに、茎の先はくるくると蔓になって大木などに巻き付いている。そんなところも不思議で、周りを気にせず我が道を行く、いわば変わり者といった感じのする植物だ。
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2008年06月24日

遺伝子組み換え作物を食べよう

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大豆の花


先日、NHKのニュースで遺伝子組み換えでない大豆の品不足について特集をやっていた。世界の主要輸出国の大豆の作付けのほとんどが遺伝子組み換え品種に変わりつつあるのだそうだ。収量が多い、病虫害に強い、悪条件でも育つ、農薬を減らせるなど良いことずくめのためとのことだ。特に最近の石油の値上がりで、耕作などにいろいろ手のかかる旧来の品種では、もう農家はやっていけなくなってしまったのだそうだ。


テレビでは続けて消費者の街頭インタビューを流していた。遺伝子組み換え食品についてどう思うかと聞かれて「よく判らないけど何となくいや」「健康に悪いと聞いたから絶対に買わない」という人ばかりだった。組み換え食品を買う例として、米国の豊かでなさそうな黒人を映して「組み換えでない食品など高くて買えない」などと言わせていた。番組はそこで当然のように、遺伝子組み換えでない大豆をいかに確保するかという商社などの努力の話題に移っていった。


これを見て私はおかしいと思った。こんな大事なことを、よく判らないとか人から聞いたとかいうことで決めつけてよいのか。なぜちゃんと調べもしないでと突っ込むべきではないか。せめて番組では、遺伝子組み換えは安全だといった意見も並べて、視聴者が判断できるようにするべきではないか。これではNHKはただ情緒的な不安を煽って、遺伝子組み換え反対の風潮に加担してしまっている。


今、人類はさまざまな脅威に見舞われている。地球温暖化をはじめとした環境の変化で農作物の生産は不安定化し、価格は急騰している。世界の各地で飢餓に苦しむ人たちが激増している。こうした危機への対処に、悪条件にも耐えられる作物の創出は不可欠のはずだ。そしてそれは、遺伝子組み換えという革新的な技術に頼らなければ間に合わないだろう。こんな状況なのに、なぜ日本では安易にダメと決めつけられているのか。そこでいくつものサイトに当たって、なぜ反対なのか、本当に危険な食品といえるのか調べてみた。


まず多くの反対サイトが冒頭、未知の脅威ということを強調していた。遺伝子組み換え技術は、種の境界を越えて遺伝子を混ぜるので、自然界にはあり得ない全く新しい生命体を生み出してしまう。そうするととんでもない化け物ができてしまい、自然のままの生命や環境が予想もできない危険に見舞われるかもしれないというわけだ。


しかしこの議論は前提が間違っている。現代の生物学は、異種間の遺伝子の交雑が自然界でも起きていることを明かしているのだ。我々のDNAの中には、さまざまな起源の異なるものも混じっている。そもそも我々の目にするほとんどの生物は、その起源において異種生物の合体した怪物のようなものなのだ。地球の歴史の中で、あるとき光合成を行う生物が誕生し空気中に酸素がたまっていったが、当時の生物にとってはそれは有毒ガスそのものだった。しかし中には酸素をエネルギー代謝に使える生物がいた。それを取り込んで合体してしまったのが、我々を含むあらゆる酸素呼吸をする生物の起源となったのだ。


つまり遺伝子組み換えというのは人類が初めて行ったものなのでなく、自然現象としてあるのだ。それを全く異質な化け物を作るかのように騒ぎ立てるのは、無知か、あるいは故意に不安を煽っているとしか思えない。


反対の理由として次に多かったのは、遺伝子組み換え食品にはこれまでになかった毒素や、アレルギーを引き起こすタンパク質が含まれている可能性があるということだった。それらがどのように健康に悪影響を及ぼすか、たとえ短期的な試験では問題なくても、遺伝子組み換え食品の歴史はまだ浅く、長期的には判らないというわけだ。


しかし新しい物質といっても、導入した遺伝子の能力の範囲から逸脱することはまずあり得ない。導入した遺伝子は人間が勝手に作ったものではなく自然界から採取したものだから、それが作り出す物質もまた自然界に存在するものなのだ。また毒というが、すべての食品に毒はあるという方が正しいくらいだ。ただ通常食べるくらいでは健康に問題がないというだけだ。アレルギーについても、既存の食品のほとんどのものが人によってアレルギー源になっている。こんなに過敏になった人体の方に問題があるといった方が正しいかもしれない。結局これらは遺伝子組み換え特有というのでなく、すべての食品に共通する課題なのだ。


だいたい世の中に完全なことなどありえない。100%安全でなければダメだといったら、自動車を走らすことも飛行機を飛ばすこともできない。我々はリスクとメリットのバランスの上で生きていくしかないのだ。そもそも100%安全かどうかなど永久に証明できるものではない。新しいことは、何か起こっても被害を最小限に食い止めるよう試験や監視を強めて、恐る恐る進めていくしかない。


反対の理由として、どうしても新しい生物や遺伝子が自然界に出てしまい、生態系のバランスを崩す恐れがあるというのがあった。しかしそれは旧来の品種改良でも同じことだ。ただ作物として作り出された品種は自然界では弱く、生き延びることはあまりない。組み入れられた遺伝子も、野生の場で特に役に立たなければいずれ消えていくだろう。それよりそもそも、生態系というのは常に揺れ動き、移り変わるものなのだ。自然のままでも突然変異など常に起こって新しい生物が誕生している。そうして生物は進化してきたのだ。もちろんあまりに急激な変化でおかしくなりすぎないよう規制は必要だが、ただ今あるがままを保存すべきだというのは、単なる感傷か懐古趣味のようなものでしかない気がする。


ある反対者は、遺伝子組み換え作物を認めてしまうと、米国のいくつかの巨大企業に市場を独占され、世界支配を許してしまうと危惧していた。しかし良いものが売れる、それを作ろうと努力したところが利益を得るというのは資本主義の原則だ。あまりあくどいことをさせないよう規制は必要だが、基本は自分たちも負けないでもっと良いものを作り出す努力をするしかないのだ。


また遺伝子組み換え作物で世界の飢餓はなくせないから反対、といったおかしな議論もあった。各地の飢餓は食糧不足のためでなく、内乱や貧困のためで、政治的に解決するべきだと主張していた。しかしそんなことがすぐにできるならば世話はない。今、現に人々は苦しみ死につつあるのだ。江戸時代の飢饉をサツマイモが救ったように、荒れ地でも収量の期待できる作物というのは、苦しんでいる人たちの待ち望んでいるものだろう。


以上、こうして検討してみて、反対論の根拠は極めてあやふやなことが判った。遺伝子組み換え作物は、もちろん絶対安全とはいえないが、その危険度は組み換えでないものと比べてほとんど差はないといってよい。それならば容易に手に入る安価なものを食べるべきだ。わざわざ世界中を探して無理して高価なものを買い求めれば、そのために余分なエネルギーを使って環境破壊をさらに進めることにもなるのだ。


それに気がついてみれば、すでに米国などでもう何年にもわたって多くの人々が食べ続けているのだった。これだけ人体実験をして特に問題も出ていないのだから、我々が食べても大丈夫と考えるのが常識というものだろう。さらに判ったのは、いろいろな加工食品に混じって遺伝子組み換え作物がもう日本にも流通していることだった。自分自身いつの間にか知らずに食べていて、それで反対を叫ぶのはもう滑稽としか言いようがない。


日本は食料の自給率の低さという大問題を抱え、そこに世界的な食糧不足と価格の急騰が追い打ちをかけている。遺伝子組み換え作物は危機を回避する有力な手段のはずだが、感情的な反発ばかりが蔓延するのはどういうことだろう。今の日本には論理的なことを敬遠し、科学を毛嫌いする風潮が強いようだ。マスコミなども視聴率第一のためか、それにおもねているばかりだ。しかし食糧の確保は国家の基盤として第一にやらなければならないことであるはずだ。行政や研究機関を始め、各方面からの大々的な啓蒙活動を期待したい。
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2008年06月21日

モクタチバナ

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梅雨の続くこの時期、集落の周辺を歩くと防風林のあちこちが真っ白になっている。モクタチバナが小さな花を上から下まで無数に付けているのだった。花はせいぜい5mmくらい、星型に開いた花びらの上に、大きな葯を付けた雄しべが思いっきり手を広げているような様子がちょっとかわいい。よく見ようと近付くと、甘くうっとりするような香りがそっと漂ってくる。


咲き始めたのはもう半月以上も前なのに、どこを見てもきれいに開いている花は少ない。ほとんど砲弾型の蕾ばかりなのだ。少しずつ時間をかけて順々に咲いていくようだ。雨の時期、虫が来なかったり花粉が流されたりと悪条件が多いから、危険分散を図っているのだろうか。


そのおかげか半年もすると、この花にしてはちょっと大きめの、赤い丸い実をたくさん付ける。ちっぽけなリンゴか、大きめのブドウのような感じで、冬の青空を背景にとてもきれいに映える。だんだん黒ずんできて甘くなり、それをアクチと呼んで、昔の子供たちはおやつ代わりに食べたのだそうだ。


ヤブコウジ科の常緑小高木で四国あたりから南の亜熱帯に分布するそうだ。この仲間で東京あたりでよく目にしたのはヤブコウジとマンリョウだった。どちらも林の下の薄暗がりで、赤い小さな実を付けてひっそりと生えていた。屋久島に来るとこの仲間は、シシアクチとかタイミンタチバナとか、種類も増えて数も多い。だいたいは山林の中なのだが、このモクタチバナだけは身近な里の周りに多い。人が植えたのでなく鳥などにより自然に芽生えたもののようだが、防風林の隙間に生えて、どんどん他を押しのけて見上げるような大木になっている。
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2008年06月17日

スポーツ神話のまやかし

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大雨の合間のモッチョム岳


オリンピックがもうじき開催されるそうだ。そのためもあってか、テレビなどのこれでもかと言わんばかりのスポーツ報道にはうんざりさせられる。日本は今、政治も経済も社会もさまざまな問題を抱えてほとんど行き詰まり状態にある。我々の暮らしを脅かすような話題などが山ほどあるのに、そうしたニュースを差し置いて水着がどうこうしたとかいったことが連日長々と報道されていたりする。


なぜこんなにスポーツ報道が多いのか。それだけ好きな人がいるからか。いや実際にスポーツをする人はそんなに多くはないはずだ。昔、団塊の世代が若かった頃は多かれ少なかれ皆けっこうスポーツをやっていたが、今の若者など自分ではほとんどやらない人が大多数のようだ。


では人々はスポーツ観戦が好きなのか。たとえばNHKのニュースでは、大リーグの日本選手の活躍が連日のように取り上げられている。しかしただ打った、投げたというだけの馬鹿騒ぎだ。チームの勝敗やゲーム全体の流れなどとは無関係の手柄話だけだ。こんなものではスポーツを見たことにはならない。そもそも野球にしてもサッカーにしても奥が深く、本当にゲームを楽しめる人など今の日本にごくわずかしかいないだろう。


スポーツは感動を与えるという。しかし世の中に感動的なものはたくさんある。芸術や科学技術、自然の中や身近な生活においても感動的な場面はさまざまにある。しかしそれらに比べてスポーツ報道は不釣合いに多い。


スポーツは純粋だという神話がある。正々堂々と闘う姿が美しいという。しかし勝負事は人の裏のかきあいだ。実力に大差なければ、たいてい意地悪でずるがしこい方が勝つ。確かにスポーツマンの中に高潔な人もいる。しかしそういう人はスポーツマンでない人の中にもいる。逆に学校の運動部など、自分勝手な乱暴者や鼻つまみの者たちのたまり場であったりする。プロの中でも反則、薬物使用、暴力、犯罪などの話題が事欠かない。国技といわれるところでも新入りをリンチで殺しておいて、それでも懲りずにまた似たような事件を繰り返しているくらいなのだ。


スポーツというものの実情はこんなものなのに、それではなぜこんなに高く持ち上げられ、さかんに報道されているのだろうか。それは一つには国を支配する側にとって都合の良いことが多いからであり、二つ目はビジネスとしてそれに群がる人たちが多いからであろう。


スポーツ省の新設といった提言が先日自民党の一部からあったそうだ。その冒頭には「オリンピックでの勝利ほど、日本国民であることに誇りを感じられる機会はない」と書かれてあった。これは昔ナチスの狙ったことと同じだ。ヒットラーはベルリン・オリンピックを戦争への精神準備に最大限に利用した。スポーツそのものはどうでもよく、作為的に愛国心を煽って国粋主義を育てる手段として極めて有効というわけだ。


スポーツ選手は敵に対しては激しい闘争心を燃やす。一方、チームや監督には絶対服従を要求される。これは軍隊において必要とされる資質と同じだ。そして民主主義の基本である博愛や自主性、理性的な思考などとは相容れないものだ。


選手はプロで成功すれば大金を稼げる。日本には金儲けはあまり良く思われない風潮がある。商才のある人が商売で金を儲ければ、たいていあくどい奴、欲深い奴と思われがちだ。しかしスポーツの才能で巨額の契約金を獲得したら、世間はそれを褒めそやす。これもスポーツ神話のおかげだろう。


今やスポーツは巨大なビジネスになっている。オリンピックの誘致に各国が血道を上げるのもそれが儲かるからだ。スポーツビジネスにおいて選手などごく一握りに過ぎない。その周りで施設建設、維持管理、用品備品、興行、報道などで食べている人たちが無数にいる。


スポーツ神話は、スポーツに寄生して金稼ぎする連中にとっても好都合だ。特にNHKとか大手マスコミなど、偽善的な面を持たざるを得ない連中ほどそういう名目を必要とする。後ろめたさを感じることなく美化し、どこからも文句を付けられず大々的に報道することができる。そしてコマーシャルと同じで連呼すればするほど人々の関心を集められる。我々のスポーツ好きというのは、そうやって外から操作され植え付けられたものではないだろうか。


こうして日本のスポーツ王国は、神話に彩られ、多くの人々の利害が一致して極めて強固になっている。それを突き崩すのは政権交代より難しいくらいだ。それでもこの国の危機的状況がしだいに人々を白けさせて、いつかスポーツ熱も冷めていくのではないだろうか。冷静に考えれば、日本選手が金メダルを取ったからといって、それは何もしていない自分とは関係ない。また日本の国が何か良くなるわけでもない。ただ才能ある人が、その得意分野で頑張ったというだけだ。我々はそれを静かに褒め讃えればよいだけだ。同じ日本人として、他国の選手よりも親しみを感じて、より心を込めて褒めることにはなるだろう。しかし日本の誇りなどと思うのは勘違いも甚だしい。選手も好きなことに没頭すればよいだけで、何も日の丸を背負ってやってもらう必要などどこにもない。


最後に間違えてはいけないのは、国民の体力作りとスポーツ振興とは別だということだ。国民の健康増進は国にとって最重要課題で、そのためには皆が毎日のように運動するような社会を作らなければならない。しかしそれとスポーツ振興とは違う。豪華な競技場などを作って選手の育成に費用をかけても国民全体の体力向上にはならない。国民の健康増進には、たとえば全国の住宅地の近くに誰もが歩きたくなるような気持ちの良い遊歩道を整備することだろう。
posted by 夜泣石 at 23:44| 世の中のこと | 更新情報をチェックする

2008年06月14日

コツクバネウツギ

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今の時期、屋久島では毎年シャクナゲ便りが聞こえてくる。もうすっかり見慣れた花なのだが、神秘的な美しさに一度は見に行かなければという気がして、梅雨の休みを狙って山奥に向かうことになる。今年は当り年のようで、車道の脇のようなところでも見事な群落を楽しむことができた。


車を止めて雑木林を眺めたとき、薄い黄色の小ぶりな花が目に入った。華麗なシャクナゲに隠れて、こんな儚げな花も咲いているのだと、その対比が印象的で見つけたときはうれしかった。


筒状の花が上下違った形に開いて、下側にだけ橙色の網目模様がある。上空を飛ぶ虫に蜜のありかを教えているのだろう。しかし細かな毛がたくさん生えて、全体をくすんだ感じにしてしまっている。上の方には大きな木々が茂っているし、こんなに淡い色で誰かが見つけてくれるだろうかと心配なくらいだ。


昔、東京の高尾山でこれに似た白花のツクバネウツギをよく見た。この花はそれよりだいぶ小ぶりで、近縁のコツクバネウツギだった。ツクバネウツギは花の終わった後、5枚の萼が羽根突きの羽のような形で長い間残り、かわいらしい感じをいつも楽しめた。こちらは萼の数が2枚ほどと少なく、残念ながらツクバネの形にはならない。


コツクバネウツギは屋久島が南限だそうだ。この島には多くの南限種や北限種があるが、限界に暮らしているというどころか、よく繁茂しているものも多い。しかしこの花は低山では暑すぎるのか、こんな山奥でないと見当たらない。しかし今度は寒すぎるのか、数も少なく本土で見たように一面花盛りになることもない。びっしり茂った林の縁でそっと、わずかな花を咲かせて細々と生きているようだ。
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2008年06月10日

温暖化対策のまやかし

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質素な美しさのヤクシマアジサイ


「地球温暖化」という言葉を連日耳にするようになった。その防止のために「CO2排出削減」が声高に叫ばれている。これだけ騒がれるとすっかり頭の中に刷り込まれてしまったが、しかしこれらは科学的に証明されているわけではないそうだ。地球は昔からかなりの温暖化、寒冷化を繰り返してきたし、CO2の濃度も大きく変動してきたのだから、現状もその一環だという議論もある。私もそうかもしれないとも思うが、しかしどう見ても人類のこれまでやってきたことは異常だから、それを少しでも改めようとする動きには諸手を挙げて賛成したい。


「CO2排出削減」が省エネや代替エネルギー源の開発などに向かうのは極めてまっとうであり、地球資源の保護のためにも大いに推進してほしい。しかし今、国際政治の場で大きく取り上げられている「排出権取引」などという話には、うさんくさいものを感じてしまう。


そもそもCO2の算出そのものに問題がある。たとえばバイオ燃料など、空気中のCO2を取り込んでいるのだからプラスマイナスゼロだというのは全くまやかしだ。農業は今、すっかり油漬けなのだ。耕作も肥料も輸送もすべて石油で賄われている。農産物からバイオ燃料を作るエネルギー源も石油だ。一説にはトウモロコシなどからのバイオ燃料は、それを燃やして出る量の倍ほどのCO2をまき散らすことになるのだという。そんな計算もしないでカーボンニュートラルなどともてはやされ、その結果人類にとって最も大事な食糧生産が圧迫されている。おかしなビジネス論理のために、世界各地で多くの人々が飢餓に追いやられているのだ。


網の目のようにすべてが絡まり合っている中で、CO2をどのくらい出したかなど本当のところとても計算できるものではない。来月には温暖化対策を主要議題としてサミットが開かれるという。世界中から人を集めるためジェット機は多大なCO2をばらまく。会場のホテルなどという所は普通の生活の場よりも何十何百倍ものCO2を常時出している。高級な食材は多大なCO2放出によって得られ、その料理に手間をかける間ずっとCO2が出続ける。各国首脳の乗る高級乗用車も、彼らが着飾る高級服なども、裏ではどのくらいCO2を使っただろうか。こうしてみると温暖化対策のための会議など全く滑稽そのもののように見えてくる。


我々の日々の生活でも、たとえば今、レジ袋がやり玉に上がっている。しかしそんなもので温暖化防止に貢献したと思ったら大間違いだ。買い物に行く車でちょっとエアコンを切って窓を開けて走れば、レジ袋千枚分くらいの貢献は軽く出てしまうだろう。マイバッグを持てと言われているが、それはしっかりした材料を何種類も集め、かっこよく加工されている。製造輸送などで出るCO2など、レジ袋の何百倍にもなるだろう。といっても私はレジ袋を擁護するというのでなく、魔女狩りのような風潮に惑わされるな言いたいだけだ。今はどの家にも使っていないバッグの一つや二つあるだろう。それを使えば新しく作る分が抑えられる。我が家でもこんな騒ぎになるずっと前から、景品か何かでもらった袋を持ち歩くようにしている。


こんな捕らえどころのないCO2なのに、排出権取引などという新しいビジネスが立ち上がろうとしている。ハイエナたちがCO2という獲物に群がり出したようだ。今の世の中、すべてが金儲けの対象になってしまう。世界で最も優秀で金を持っている連中は、その力で政府を動かし、マスコミを動かし、世論を操作できるのだ。そうして新しいマネーゲームが始まり、彼らはさらに金を稼いで排出権を買い占め、支配力を増していくことだろう。


こんな世の中で、我々一人一人ができることは何だろうか。生きていく過程のすべてにCO2がつきまとうのはどうしようもない。しかしごく単純に割り切れば、だいたい高価なものほどそれに比例するようにCO2をまき散らしている。だから我々は金を使わなければよいのだ。必要最小限の出費で済ませればCO2も最小化できる。質素に暮らし、高価なものは持たず、食べず、身につけない。高価なサービスも受けず、旅行もしない。そうして金の臭いがしなければハイエナたちもやってこない。


そんな生活は味気ないだろうか。いや考えてみれば、物質的なことでしか満足を得られないとしたら、その方が味気ないだろう。本当の豊かさや幸せは金で買えるものではないはずだ。日本には質素な生活を尊ぶ伝統がある。長い歴史の間、与えられた環境と調和し、むさぼらずとらわれず暮らしてきた。あるがままの自然の中で感性を磨き、豊かな精神世界を築いてきた。金や物に振り回されるようになったのはこの100年かそこらだろう。一時の夢から覚めて、もう元に戻っても良い頃だ。


今、金儲けに人々が狂奔しだした国に中国とインドがある。しかし中国には古代から老荘の無の思想がある。理想の暮らしとは、ただその土地に満足し、その地の衣食住に甘んじ、隣の国の鶏の声が聞こえても、一生そこに行くこともないというものだ。インドでも功成り名遂げた人が、年を取ったらすべてを捨てて放浪し、最後は路上で死ぬのを最上とする思想がある。それらは私に屋久島移住を促したものでもあったが、数千年も続いたこうした伝統は、今でもきっと彼らの間に根強く残っていることと思う。


今やこのような生き方を世界中の人々が選ぶ時が近付いているのではないだろうか。様々な温暖化対策は、現状の経済や社会を前提にしている。しかし温暖化をはじめとした地球環境全体のひずみは、もはや一人一人が価値観を変え、新しい生き方を模索し、違った社会を作らざるを得ないところにまで来ているような気がする。
posted by 夜泣石 at 22:25| 世の中のこと | 更新情報をチェックする

2008年06月07日

モダマ

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高さは10mもあるだろうか、大木の梢越しに巨大な豆の鞘が見える。とんでもない大きさの芋虫がのたくってでもいるかのようだ。鞘の長さは1mくらいか。大きな豆でぷくぷくとふくれているのが遠くからでも判る。


モダマは標本では知っていたが、実際に木にぶら下がっているのを見たのは初めてだ。屋久島では猿が多く、豆などいつも小さいうちに食べられてしまうのだという。こんな鞘が見つかったのは20年ぶりくらいだそうだ。あまりに高いところまで蔓が伸びたので猿でも手が届かなかったのか、あるいは大木の枝葉が邪魔をして見落としてしまったのだろう。


これは去年咲いたのが、じっくり一年かけて成長したもののようだ。今はちょうど今年の花が手の届くところで咲いている。マメ科では見かけない棒のような穂になって、20cmほどの長さに200や300の花がびっしり付いている。黄色の雄しべ雌しべばかりがもじゃもじゃと目立って棒ブラシのようだ。そんな穂が一ヶ所から5、6本飛び出している。


普通、ブラシのような花は、その一つ一つが実ってトウモロコシのような果実になる。しかしマメ科では一つの花から一つの鞘ができ、その中にいくつもの豆が入る。モダマも一つか二つの鞘が垂れているだけだから、これだけたくさん咲いてもほとんどの花は実らないのだろう。


モダマは屋久島が北限で、そこから南に熱帯亜熱帯に広く分布しているそうだ。大きな種が海流にのって各地に流れ着いて、昔の人は海藻の実か何かと思ったのだそうだ。屋久島産の標本を見たら、平べったくて大きく、直径が12cmもあった。沖縄あたりのものも見たことがあるが、もう少し小さく厚みがあったように思う。屋久島に生えているのは少し種類が違うとのことだ。


昔はあちこちにあったそうだが切り倒されて、今では島に一本だけしか残っていない。もったいないことをしたものだと思うが、しかし切り倒したくなる気持ちも判らないではない。ともかくその茂り方がすさまじいのだ。蔓はあちこちにとぐろを巻いて、いったいどこからどこまで伸びているのか見当も付かない。もうだいぶ古い株だと思うがまだまだ精力旺盛で、近くのセンダンの大木の樹冠まで覆い尽くそうとしている。


何とかこの豆を手に取ってみたいものだと思う。この夏の台風の後などに行ったら拾えるかもしれない。といっても町の天然記念物に指定されているから、自分のものにはできそうにないが。それよりどこか猿の来ない林にこの豆をまいて、いつも楽しめるようにできないものか。この巨大な豆とねじくれた蔓はいかにも熱帯のジャングルの雰囲気がするし、きっと新しい名所になることだろう。
posted by 夜泣石 at 06:15| 花草木 | 更新情報をチェックする

2008年06月03日

感動を求めて

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雨に濡れる残り花


突然の眼病で振り回された5月が終った。屋久島に隠棲して以来、最も慌ただしい日々だったが、やっと平穏な生活に戻りつつある。右目の濁りはだいぶ薄らいで、うっとうしさは減った。なぜかなかなか視力が回復しないので片目だけの生活になっているが、人間の体はどんどん状況に順応していくようだ。片目が見えなければもう一つの目だけで見ようとする。それに慣れるとあまり不自由さを感じなくなる。


処方された薬はかなり強力だったようで、めったに薬など飲まない体には副作用がひどかった。胃のあたりが不快で、しゃっくりが出て止まらない。胃酸が逆流したのか、喉が腫れて飲み込むのに痛く声もかすれた。寝付きが悪くなり、眠りも浅くすぐに目が覚めてしまう。4日間苦しんだが、そんなことにも体は慣れるようで、5日目からは嘘のように楽になった。


今までと同じ生活が送れなくなった時、何をして時間を過ごせばよいか考えた。というより、今までやってきたことは何だったのかと改めて振りかえった。私の生活の主題は何だったか、そもそも何が楽しくて生きているのだろうか。


移住して以来、毎日のようにたくさんの写真を撮ってきた。写真家になりたかったからか、写真芸術でも追求したかったからか。いや私にはプロも芸術も念頭にない。ただはっきりくっきり写したいだけだ。世の中にこんなものがあった、よく見たらこんなふうになっていた。小さな子供が珍しいものを見つけて喜ぶのと同じで、ただ感動し、その姿を残しておきたいだけだ。


写真のイロハに反して、私は縦位置をまず撮らない。横位置ばかりなのは、その方がパソコンの画面に収まりがよく見やすいからというだけだ。最小限の道具しか持たず、三脚も使わない。そうしたものでじっくり撮影すると、周りを踏み固めたりして自然を荒らしてしまうおそれがあるからだ。手っ取り早くストロボを多用し、さっと撮るように心がけている。それでも感動が伝わりさえすれば良い写真だと思っている。


文章も書くのが好きで、多くの時間を費やしてきた。私は中学生くらいの頃、科学に熱中すると同時に詩を書く少年でもあった。しかしあるとき長い詩を書いて、そこから余分な言葉を省いていったらほとんど1行くらいしか残らないことに気付いた。自分の本当の気持はそんな貧弱なものだったのに、言葉でごまかそうとしていたのだ。それからはただ平易な言葉で、簡潔明瞭な文章を書くことにした。自分は何に感動したのかしっかり捉えて、それが伝わることだけを心がけている。


本もたくさんの読んできた。少年の頃は文学も多かったが、いつしかほとんど科学書ばかりになった。科学が解き明かす自然の素顔というのは我々の想像を超えている。進化論など知れば知るほど、よくも単純な原理でかくも複雑多様な生命世界ができあがったものだと、ただもう感動するばかりだ。


この世の神秘を神や霊魂に帰する人たちがいる。しかしそれは判ろうとしないことの言い訳をしているだけだ。超越的なものを持ち出してしまったら、そこで探求もさらなる感動も終りになる。自然の美しさに神の讃歌を書いた古の詩人たちは表面しか見ていなかったと思う。我々は科学のおかげで奥に秘められたさらに美しいものを見、より深い感動を得ているのではないだろうか。


私は最近、脳科学の本をよく読む。いよいよ人間の本質に迫りつつあるように思う。科学はまだまだ宇宙の根本を解き明かすところまで行っていない。しかし脳の物理化学作用の根本は量子力学レベルで十分だから、それはほぼ解明済みといえる。ただそれだけの原理で、よくもこの我々の精神活動が成り立っているものだと驚嘆する。しかもそんな物理化学作用が、自身の作用のからくりまで解き明かそうとしているのだ。もうすぐ私が感動するということの本質も明らかにされるだろう。それを知ったとき、私はさらに深い感動を味わうことと思う。


私はずっと感動を求めてきたのだろうか。しかしまた、生きものたちの精緻な働きを知れば知るほど、必ずそれが滅びることに言いしれぬ悲哀を感じてしまう。工夫し尽くされた姿、懸命な生き方の陰に、どうしようもない寂寥感が漂っているように思う。そうしたものはさらに感動を深めるのか、美しく力強い朝日よりも、しだいに暮れていく夕日の方に訳もなく惹きつけられる。限りあること、その向こうにある絶対的な無。この命の最後に、壮大な夕日は眺められるだろうか。
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